北条宗時。時政の嫡男で弟は義時・時房

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生年未詳~1180年(治承四年)

父は北条時政で母は未詳。

宗時は北条三郎と称しました。「増鏡」には「太郎は宗時、次郎は義時といへり」と記載があり、三郎・太郎いずれにしても嫡男だった可能性が高いとされています。ちなみに、義時は四郎と呼ばれています。

1180年(治承四年)8月17日、父時政・弟義時とともに頼朝軍に従い、伊豆国目代(国司の代理)の山木兼隆を襲撃。8月23日の石橋山の戦いで、頼朝軍は平家方大庭景親の軍勢に大敗しました。

北条宗時は、父時政・弟義時と別行動をとります。これは別々に行動することで、どちらかが討たれても片方が生き残れば家は存続できるという武士特有の行動論理で動いたと考えられます。

翌24日、甲斐国に落ち延びる途中の早河付近で、伊東祐親軍に包囲され、小平井名主紀六久重によって討死しました。

北条時政系図

 

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