鎌倉幕府の経済基盤~関東御領と関東御分国

鎌倉時代
スポンサーリンク

鎌倉幕府は、朝廷や室町幕府・江戸幕府、果ては明治新政府以降の日本政府のような全国統一政権ではありません。

鎌倉時代というので、「鎌倉幕府は全国政権」と、ついつい錯覚してしまいますがそうではありません。

鎌倉時代の全国政権はあくまで「朝廷」です。平家打倒の挙兵を起こした頼朝勢は、中央に弓引く反乱軍でした。平家や奥州藤原氏を滅ぼす過程で、東国の地方政権として認められていったのです。

 

 

全国政権でない鎌倉幕府は、全国に命令して税を徴収する権限も力もありません。

古代日本から続く「荘園制」という私有財産制度を利用して、自ら財政運営をしていかなければなりませんでした。そういう観点からすれば鎌倉幕府もまた、王家や摂関家と同様の荘園領主ということになります。

鎌倉幕府の財政基盤には、一般的には「関東御領」とよばれる荘園所領と、「関東御分国」とよばれる知行国、そして「御家人役」が挙げられます。

スポンサーリンク

関東御領

関東御領は、主に東国領と平家没官領から成ります。

東国領

東国領とは、治承・寿永の内乱を通して頼朝が実力によって支配権を握った荘園のことです。

反乱軍頼朝は、打倒平家を叫びながら東国の国衙(国司の行政庁)を襲撃するという「反乱軍」らしい行動を通して、東国を手中におさめていきました。

そして、平家や木曽義仲に対して優勢になると、この東国での反乱が事後ながら朝廷によって追認されます(寿永二年十月宣旨)。「寿永二年十月宣旨」は、年貢を荘園領主(主に京都の領主)に納める代わりに、頼朝の東国(東海道・東山道)の支配権を認めたものです。

頼朝は宣旨を根拠に、「件(くだん)の所々、没官注文に入らず候と雖も(いえども)、坂東の内として、自然知行来り候(謀叛人から没収した土地ではないけど、朝廷から東国支配を認められているので当然俺たちの土地)」といって東国の荘園を支配下におさめていきます。

その後も「東国武蔵・相模をはじめて、申し請けるままに給ひてけり」と『愚管抄』に記されるように、関東の王家・摂関家領も、幕府の申請によって関東御領となった所領もありました。

このようにして、東国を中心に関東御領が成立したのです。

 

平家没官領

平家没官領とは、広義には官に没収された平家一門および与党の所領とされます。

その没収した所領のうち、下司職などが地頭職として御家人に与えられますが、幕府財政にとって重要なのは、1183年(寿永二年)の平家が都落ちした後に作成された「平家没官領注文」に載せられた平家一門の所領です。

1184年(元暦元年)正月の源義仲・行家の没落と共に、これらすべてが頼朝の手中に入りました。内乱終結後も九州を中心に没官領の調査・掌握は続けられ、承久の乱などの没官領がこれに加わることになります。

このように鎌倉幕府は、多くの荘園の領家職・預所職を掌握することで、最大規模の荘園領主となったのです。

関東御領には、国衙領という国有地も含まれていました。このような関東御領については、幕府政所(家政機関)が統括して年貢・公事を徴収し、御家人を預所に任命します。原則として守護の関与は禁じられていました。

鎌倉中期以降、関東御領の実質的な支配権は北条氏が掌握し、幕府滅亡後は「元弘没収地」として建武政権に没収されることになります。

関東御分国

関東御分国とは、「将軍家=鎌倉殿」の知行国のことです。

鎌倉殿は、知行国主として源氏一族や有力御家人を朝廷に推挙して国司とし、目代を派遣して国衙(国司の役所)を支配しました。

このやり方は、藤原氏などの中央貴族とまったく同じやり方です。時代は下って、後醍醐天皇は鎌倉殿や藤原氏が行った知行国制度を否定して、本来の国司の姿に戻そうと努力します。

 

 

頼朝が平家没官領を得た1184年(元暦元年)、三河・駿河・武蔵の3カ国を与えられたのに始まり、翌1185年(文治元年)には9カ国に拡大しました。

その後、頼朝が知行国を返上したことで1190年(建久元年)には4カ国に減少します。

これ以降は、承久乱後に西国の備前・備中を加えて6カ国になったものの、ほぼ相模・武蔵・駿河・越後の4カ国で推移します。

基本的に、鎌倉殿の知行国を関東御分国と呼びますが、「寿永二年十月宣旨」で頼朝の行政権が認められた東海道・東山道の「東国」も「関東御分国」と称されました。

奥州藤原氏が滅亡すると、陸奥・出羽二国に地頭職を設置して地下管領権(じげかんれいけん)を掌握しました。これらの国々では、知行国主の年貢徴収を幕府が保証する体制がとられます。

鎌倉幕府の性格

鎌倉幕府(鎌倉殿)の財政は、関東御領・関東御分国といわれる荘園によって成り立っていました。鎌倉幕府が知行国主・荘園領主という点では、摂関家や寺家のように荘園公領制に立脚する「権門」として見なすことができます。

しかし、鎌倉幕府の荘園は、摂関家などのように寄進によって立荘されたのではなく、軍事力で勝ち取って実力支配を行ったという点が他の権門と異なっています。

 

スポンサーリンク
鎌倉時代鎌倉幕府荘園
スポンサーリンク
スポンサーリンク
幻了をフォローする
スポンサーリンク
あなたの隣に室町幕府

コメント

タイトルとURLをコピーしました