室町幕府

足利尊氏の時代

尊氏の京都再攻略と南北朝時代の幕開け

1336年(建武三年・延元元年)5月25日、楠木正成は湊川の戦いに散りました。 後醍醐天皇は、生前に楠木正成が主張した作戦を採用します。 それは、後醍醐天皇は比叡山に退き、尊氏を入京させ、京都を包囲することで尊氏軍を殲滅するとい...
足利尊氏の時代

湊川の戦い・足利尊氏 vs 楠木正成・新田義貞

九州に落ちた足利尊氏は、多々良浜の戦いで勝利をおさめたことにより、再び京都を目指すことになります。 九州の多々良浜(福岡県福岡市)で尊氏が勝利する直前の2月29日、京都では後醍醐天皇により改元が行われて延元元年となりました...
足利尊氏の時代

多々良浜の戦い

京都・兵庫で後醍醐方に敗れた足利尊氏は、持明院統の担ぎ出し裏工作や一種の徳政令を出して味方の兵を募るなど、次の一手を打ちながら九州へ退いていきます。 尊氏九州上陸 1336年(建武三年)2月29日、尊氏軍が筑前芦屋ノ津(福岡県...
足利尊氏の時代

尊氏、持明院統・元弘没収地返付・室津軍議など布石を打って九州落ち

箱根・竹之下の戦いで、新田義貞を撃破した尊氏は、そのまま京都に向けて進撃を開始しました。 後醍醐天皇は、尊氏を挟み撃ちをするために奥州の北畠顕家に尊氏追討を命じました。顕家は1335年(建武二年)12月22日に奥州を出発。 12...
足利尊氏の時代

尊氏の建武政権離反・尊氏対義貞の最初の激突~箱根竹之下の戦い

得宗・北条高時の遺児北条時行とその残党が起こした「中先代の乱」とよばれる大規模な反乱は、京都から足利尊氏率いる軍勢が下向したことで鎮圧されました。 8月2日に尊氏は京都を出発していますが、喜んで尊氏軍に従った人は数知れずという状況だったよ...
室町時代

足利将軍家の正室は日野氏から

中世において、婚姻関係が権力奪取の手段でもあり、きっかけでもあります。 藤原氏は、娘を天皇に嫁がせ、生まれた皇子の外戚になることで、その権力を強めていきまし、北条氏は、娘の政子が源頼朝の正室であったこと、その息子の頼家、実朝の外戚になった...
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