北条氏

鎌倉時代

【宮騒動・寛元の政変】執権経時・時頼兄弟による反執権派追放劇

1219年(承久元年)、3代将軍源実朝が2代将軍頼家の遺児で鶴岡八幡宮別当の公暁によって暗殺され、源氏将軍は3代で途絶えます。 実朝後の鎌倉殿を継ぐため、わずか2歳で鎌倉に下向した三寅(さんとら)は、1225年(嘉禄元年)に元服し藤原頼経...
鎌倉時代

泰時・時房の死と4代執権の座を巡る北条氏の内紛

北条泰時は、祖父時政・父義時のようにライバル御家人を滅ぼすことで北条氏の地位をあげるのではなく、御家人・官僚から協力を引き出すことで地位を高めていった執権といえます。 泰時は御家人や官僚の協力体制を整えて評定衆を設置し...
北条泰時の時代

北条泰時、皇位継承に介入~後嵯峨天皇の即位の背景と経緯

北条氏惣領(棟梁・リーダー)としての立場が弱かった北条泰時は、評定衆という合議体制を敷くことで、自身の立場の強化をはかっていきました。 そんな泰時ですが、朝廷・寺社への姿勢は強硬的であったといえます。先々代の時政、先代...
鎌倉時代

伊賀氏の変と北条泰時・三代執権の座を巡る北条氏の内紛劇を解説

1224年(元仁元年)6月13日、北条義時は死去しました。 「吾妻鏡」によると、日ごろから脚気(かっけ: ビタミン不足で神経障害が発生し、最悪心不全にいたる場合も)があったところに、6月12日に急性胃腸炎を発して、翌日に没するという急死で...
北条時政の時代

頼朝・義経の兄弟阿野全成~子孫は後醍醐天皇の妃阿野廉子

源頼朝の弟といえば、源義経や源範頼を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか?それが普通です。 しかし、あまり知られていないですが、義経や範頼のように頼朝に滅ぼされずに、鎌倉幕府初期まで生き残った弟がいます。 彼の名は阿野全成(あのぜん...
北条時政の時代

梶原景時は本当に悪人だったのか?景時追放の裏に将軍擁立争い?

源義経を讒言(ざんげん)で追い落とした張本人として悪者として有名な梶原景時(1140?~1200)。 義経だけでなく、忠臣として知られる畠山義忠をはじめ大小さまざまな御家人たちが景時の讒言で痛い目にあっています。 鎌倉方では評価の低い御...
北条義時の時代

執権北条義時は嫡流ではなかった?それが北条氏の長年の対立の原因に

鎌倉幕府2代執権北条義時。 戦前の教科書では「朝廷に弓を引き、3人の上皇を島流しにしてしまう悪逆非道の男」として結構有名な御仁だったそうです。 さらには、源氏将軍を亡き者にし、次々と策謀を張り巡らして政敵を倒し、執権の座を確かなものとし...
鎌倉時代

鎌倉北条氏について簡単に解説

鎌倉幕府ナンバー2にして、実質ナンバー1な北条氏。 戦国時代の後北条氏と区別して、鎌倉北条氏・執権北条氏・前北条氏ともよばれますが、この北条一族はすごい。 血筋においては、確かに足利氏や新田氏よりも低いのですが、並みいる御家人を押さえて...
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