北条氏

北条時政の時代

2代執権・北条義時の生涯~2022年大河ドラマ主人公

足利尊氏・直義兄弟によって制定された『建武式目』には、「義時泰時父子の行状を以て近代の師となし」と記され、足利兄弟は北条義時・泰時父子が行った執権政治を理想に掲げました。室町幕府は、成立当初から鎌倉幕府の後継を意識した政権だったのです。そし...
鎮西探題

【鎮西探題③】歴代の鎮西探題。選任から見えてくる得宗家の思惑。

元の再来襲に備えて異国警固番役に就いている御家人・非御家人が、恩賞や所領争いのために鎌倉や六波羅に来ることは幕府としては困る話でした。 なぜなら、防備の持ち場を武士たちが離れてしまうからです。 そこで幕府は、1286年に鎮西談議所を設置...
六波羅探題

六波羅探題③・探題は骨の折れる仕事

足利尊氏によって攻め滅ぼされた六波羅探題シリーズ。 今回は、六波羅探題と鎌倉幕府・鎮西探題の違いと、長官としての六波羅探題にスポットを当てましょう。 前回までは、鎌倉幕府の一機関としての六波羅探題でした。 文書の署名に見る鎌倉・...
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六波羅探題

六波羅探題①・六波羅探題成立と役割についてご紹介

鎌倉幕府滅亡に至った戦いとして、足利尊氏の六波羅探題攻めと新田義貞の鎌倉攻めが挙げられます。 皆さんも鎌倉幕府については幾度となく触れたことがあると思いますが、六波羅探題について触れる機会は中々ないのではないでしょうか? 「足利尊氏が六...
鎌倉時代

【弘安徳政】情けの武将安達泰盛の政治

1281年(弘安四年)、鎌倉幕府は元軍による侵略を防ぎ止め撤退に追い込むことに成功しました。 文永の役記事 弘安の役記事 翌年の1282年(弘安五年)、執権北条時宗は南宋出身の僧侶の無学祖元(むがくそげん)を迎えて、鎌倉に円覚...
鎌倉時代

【2回目の蒙古襲来】元寇・弘安の役

1274年(文永十一年)の元寇・文永の役で、元軍は謎の撤退をしました。 文永の役 元の再来に備えた鎌倉幕府 しかし、その後も元国皇帝フビライからの使者が、数度にわたって日本に派遣されています。 再び元からの使者 1275年(建...
鎌倉時代

【元寇前夜】蒙古使者と異国の防御をすすめる鎌倉幕府

日本の中世における外交史の中で、もっとも強烈な事件は蒙古襲来でしょう。文永・弘安の役と言われ、今となっては歴史の中に埋もれてしまいがちですが、江戸末期の開国・太平洋戦争(大東亜戦争)に匹敵する国難だったと言えるのではないでしょうか。 結論...
鎌倉時代

【引付衆設置など】御家人の負担軽減策を行った北条時頼

北条時頼は、寄合という秘密会議や執権職を譲渡した後も実権を握り続けるなどして、自身の立場や北条得宗家を中心とした幕府政治を強化していくようになります。 その一方で、優れた御家人政策を行っていました。 つまり、北条一族内には強い態度で...
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