第一次観応の擾乱(直義vs尊氏・師直)~直義の南朝降伏と師直の死

足利尊氏の時代
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1348年(貞和四年)の四条畷の戦いで声望を再び高めた師直は、直義と激しく対立します。そして、直義が師直を幕政から外す先制攻撃を加えると、師直・師泰は武力によって直義を圧迫。

 

 

尊氏の調停によって両者は和解し、幕府は穏やかになると思われましたが・・・。

直義・師直の対立は全国に飛び火し、世にいう観応の擾乱が勃発します。

 

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直冬の九州席巻と地方の反乱

尊氏の庶子で、直義の養子となっていた足利直冬は、長門探題として備後鞆(広島県福山市)にいました。

師直は、直冬追討を画策します。

1349年(貞和五年)、備後国の杉原又四郎という武士に命じて直冬を攻撃し、直冬は九州に逃れました。直冬は直義の後継者であり、師直にとっては倒さなければならない存在だったのです。また、次期将軍義詮を中心として二頭政治の克服を目指す尊氏にとっても、直冬を討っておく必要があったという点で、尊氏と師直の利害は一致していました。

九州に逃れた直冬は、肥後国河尻津に上陸し、尊氏から派遣された九州探題一色範氏と反探題勢力の少弐頼尚の対立を利用して、反探題方の在地勢力に積極的に所領安堵や新恩給与を行い、彼らを味方につけることによって急激に勢力を拡大していきます。その際に直冬から発給された安堵状や宛行状は、将軍様式で発給されたようです。また、軍勢催促を行うときは「両殿(尊氏・直義)の御意」と称し、尊氏の権威を利用しました。

この直冬の行動に対して、尊氏は9月に出家を命じ、10月には上洛を命じています。しかし、直冬はこれに応じることはありませんでした。

1350年(貞和六年)2月27日、北朝は「貞和」から「観応」へと改元します。

1350年(観応元年)6月、尊氏は直冬を討つために師泰を中国地方に派遣しましたが、石見の三隅城攻めに手こずったため、戦果が上がりませんでした。

それどころか、中国地方にも直冬の勢力は拡大し、長門厚東氏や周防大内氏までが直冬派になったことから、北九州から山口は直冬勢力となったのです。

同年7月、美濃・尾張で土岐周済が挙兵します。周済が挙兵した理由は不明ですが、宗家の美濃守護土岐頼泰が師直派だったことから対抗したのではないかと推測されています。周済は近江に進出して佐々木道誉と合戦におよび、義詮・師直軍によってようやく鎮圧されます。

義詮はこの戦功により、北朝から参議および左近衛中将に任じられています。

しかし、信濃・常陸・越後以下の国々で反乱が起こるとの噂が京都に流れます。幕府内の亀裂が、地域社会のさまざまな対立と結びついて拡大していたのです。

同年10月、尊氏は師直以下を率いて直冬討伐のために出陣します。京都の留守は義詮に任せ、足利一門仁木頼章・弟義長、佐々木道誉がこれを補佐しました。

ところが、出立の前日に突如直義が京都を出奔します。これを知った仁木・細川は直義の捜索を具申するも、尊氏・師直は予定通り出発。

直義派といえる勢力は、直冬を除いて越中の桃井直常と関東執事で伊豆・上野・越後守護の上杉憲顕くらいでしたから、深刻に考えていなかったのでしょう。

 

南朝に降伏した直義

直義は大和から河内に入り、紀伊・河内・和泉守護の畠山国清に迎えられ、師直・師泰兄弟討伐を名目に挙兵しました。畠山国清は、尊氏・師直派でしたから、直義に寝返ったことになります。

直義は、師直・師泰の討伐を命じる軍勢催促状を多数発給します。

これに呼応したのは、伊勢守護の石塔頼房や讃岐守護の細川顕氏でした。石塔も細川も足利一門です。

挙兵した直義は、思いもよらない奇策に打って出ます。南朝に降伏です。11月23日のことでした。

直義の降伏について、南朝は大いに揉めたようですが、北畠親房の「まずは直義の降伏を認めて軍勢を結集し、皇統を統一すべき」という意見によって認められます

11月25日に北畠親房と直義の会談が河内石川城(大阪府河南町)で行われ、翌月から南朝から直義の降伏を承認する綸旨が下りました。

この結果、大和・河内の南朝方の勢力は直義に合流し、南から京都攻撃を行う態勢が整います。12月に入って、直義は畠山国清軍を率いて河内石川城を出陣し、21日には天王寺まで進出します。

一方で、石塔頼房が伊勢から近江に侵入し、佐々木(京極)道誉や佐々木(六角)氏頼と交戦しながら、11月7日に石清水八幡宮に着陣。9日には平等院鳳凰堂を占拠します。

1351年(観応2年)1月7日、直義は石清水八幡宮に入りました。

四面楚歌の尊氏

直義の南朝降伏の情報を聞いたとき、尊氏は備前福岡(岡山県瀬戸内市)で直冬討伐軍の集結を待っていましたが、急ぎ京都に向けて反転します。

1351年(観応二年)1月6日、摂津西宮まで戻ってきた尊氏に、若狭・丹波守護の山名時氏が合流し進軍しました。

1月13日、直義方の越中守護の桃井直常と南朝の連合軍が近江坂本から比叡山を越えて京都に乱入。

このとき、駿河守護の今川範国、上杉朝定・朝房が、直義に寝返って京都を脱出し、石清水八幡宮に入ります。その前には、足利庶子家では最も家格の高い越前守護の斯波高経が、京都を脱出して直義に寝返っています。

1月15日、義詮は京都防衛を断念して京都を脱出。このとき、下総守護の千葉氏胤が直義に寝返りました。

尊氏・師直軍は、現在の京都府向日市付近で京都を逃れた義詮と合流し、いったん京都に入って三条河原で直常軍と激戦を交え、勝利します。しかし、直義派の軍勢は増える一方で、尊氏は京都防衛を断念し丹波に逃れました。そして、丹波から播磨へ向かい書写山(兵庫県姫路市)に陣を敷きます。さらに、直冬討伐の大将として石見で苦戦を強いられていた師泰が書写山で合流します。

しかしこの間、山名時氏・佐々木(六角)氏頼も直義派に寝返り、畿内の有力守護のほとんどが直義派に寝返ったことになります。さらに、関東執事の高師冬が上杉軍との戦いで戦死し、関東は上杉氏の支配下に置かれることになりました。

尊氏は四面楚歌の窮地に陥りました。

かわって京都に入ったのは直義。直義は、北朝に三万疋の銭を渡すことを申し入れます。南朝に降伏しておきながら、北朝に銭を融通するのは南朝にとっては背信行為ですが、直義の意図としてはこれを機会に両朝を和睦・合体させようとしたのでした。2月には、南朝方へ和睦の申し入れをするための使者を銭一万疋とともに派遣します。

直義は、両朝と手を結んだことで、権威の面でも将軍尊氏を凌ぐようになったといえます。

師直・師泰兄弟の死

書写山に立てこもる尊氏・師直を攻撃するために、石塔頼房が播磨に派遣されます。

頼房は南北朝内乱初期には播磨の国大将で、東播磨の久我家領這田荘(兵庫県西脇市)の地頭職をもっていました。尊氏派の守護赤松氏によって抑圧されていた東播磨の在地勢力は、頼房に結集していきます。

頼房は這田荘に隣接する光明寺(兵庫県加東市)を城郭にし、書写山攻撃の態勢を整えました。

2月に入って、尊氏・師直は光明寺に先制攻撃を仕掛けますが、城の守りは固く攻めあぐんでいました。このとき、赤松則祐が無断で戦線を離脱し、本拠地播磨の白旗城(兵庫県上郡町)に引き上げてしまいます。

2月9日、頼房の援軍として派遣された細川顕氏・細川頼春・上杉顕能が書写山坂本の尊氏・師直軍を襲撃し、尊氏軍に多数の損害が出て、尊氏は法華寺に籠もります。

さらに、石清水八幡宮のある八幡から畠山国清・小笠原政長の大軍が迫ったため、光明寺攻撃をあきらめ懸河に陣を移しました。

そして2月17日、尊氏・師直軍は摂津兵庫に転進。翌18日にかけて摂津打出浜で直義と正面から激突します。「打出浜の戦い」と知られる合戦です。

この戦いで両軍ともに多数の戦死者を出しますが、尊氏軍は直義軍と畠山国清軍の挟み撃ちにあって敗北しました。師直は股に、師泰は頭部と胸に手傷を負傷し戦意喪失。

尊氏は直義のもとに使者を派遣し、師直・師泰の出家を条件に和議を申し入れます。彼らが出家したのは24日ごろで、高一族とその被官120人余りも出家しました。

和議が成立し、師直・師泰は尊氏とともに京都に向けて出発しますが、尊氏から三里ほど離れて進みました。

一行が摂津武庫川の鷲林寺の前に来たとき、500騎で待ち構えていた上杉修理亮重季(能憲とも)の軍勢によって、師直・師泰以下高一族・郎従数十人が斬殺され、あるいは自害しました。

直義の最大のライバル師直はこうして滅んだのでした。

 

 

参考文献

亀田俊和『観応の擾乱』中公新書。

佐藤進一『日本の歴史9~南北朝の動乱』中公文庫。

小林一岳『日本中世の歴史4~元寇と南北朝の動乱』吉川弘文館。

 

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