北条泰時の時代

鎌倉時代

4代執権・北条経時の生涯

得宗北条氏の中で、もっともマイナーと思われる人物が4代執権北条経時。それもそのはず。たった4年しか活動していないので。 しかし、この4年の間に、将軍頼経を更迭して、将軍と執権の対立関係を解消し、評定衆の改革も行って裁判制度の迅速化をは...
北条時政の時代

初代連署・北条時房~甥の執権泰時と共に執権政治の確立に尽力

北条氏による執権政治が確立したのは、北条泰時の時代と言われていますが、泰時の北条氏内部での求心力は弱いもので、政子のお膳立てがなければ執権になれないような立場にありました。 政子は、自身が没したあとの泰時の立場を案じて、弟の時房を連署...
鎌倉時代

御成敗式目と分国法

今回は、『御成敗式目』の内容をさらっと把握した上で、『御成敗式目』の制定が後世の社会にどのような影響を与えたのか見てみましょう。 『式目』の内容 『式目』51ヶ条の内容はどのようなものだったのか、一部かいつまんでご説...
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鎌倉時代

御成敗式目(貞永式目)が制定された背景

承久の乱によって、政治の実権は公家から武家へ移りました。 と、文字で起こすと、「簡単な」出来事に見えてしまいますが、この事件は当時の社会において相当なインパクトをもたらしたことは想像に難くありません。 それは、明治維新に匹敵する...
鎌倉時代

足利義氏【後編】・関東宿老と鎌倉足利氏の全盛期

足利氏3代当主足利義氏は、3代執権北条泰時とは従兄弟であり、娘婿でもあり、その関係は強固なものだったようです。 この関係は後年、北条泰時の「関東棟梁」、足利義氏の「関東宿老」と称されるようになります。北条氏との強固な連携と、北関東に築...
鎌倉時代

足利義氏【前編】・和田合戦と承久の乱

鎌倉時代における足利氏の基礎を築いたといえる足利義兼は、1199年(正治元年)3月8日に頼朝の死を追うようにこの世を去りました。 義兼の子供たち 義兼の子には太郎義純、二郎義助、三郎義氏、四郎義胤(二郎義助の子)と2人の娘がいま...
鎌倉時代

北条泰時、皇位継承に介入~後嵯峨天皇の即位の背景と経緯

北条氏惣領(棟梁・リーダー)としての立場が弱かった北条泰時は、評定衆という合議体制を敷くことで、自身の立場の強化をはかっていきました。 そんな泰時ですが、朝廷・寺社への姿勢は強硬的であったといえ...
鎌倉時代

泰時の執権政治~「評定衆と連署」の設置にいたる経緯と背景を解説

1224年(元仁元年)7月、伊賀方(いがのかた)らを中心とする伊賀氏の画策は失敗し、尼将軍北条政子・幕府宿老の後押しを得て、北条泰時は執権に就くことになります。 とはいえ、執権になった泰時の北条氏内の立場は、ま...
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