御成敗式目と分国法

鎌倉時代
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今回は、『御成敗式目』の内容をさらっと把握した上で、『御成敗式目』の制定が後世の社会にどのような影響を与えたのか見てみましょう。

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『式目』の内容

『式目』51ヶ条の内容はどのようなものだったのか、一部かいつまんでご説明します。

1、2条

幕府支配下の国々や荘園内の神社・仏寺を崇敬し、破損した寺社を修理することが命令されています。

これは、「信仰心を深めよ」という意味合いもありますが、『式目』が誰を対象としているのかを示しています。

幕府支配下の人達が対象

朝廷の律令以下の「公家法」、荘園本所が自分の支配地域内に施行していた「本所法」。そして、新たに制定された『式目』は「武家」の法律であることを1、2条で宣言したと言えるでしょう。

3条~6条

諸国の守護・地頭の職務、幕府と朝廷・荘園本所との関係を規定しています。

すなわち、守護の職務を「大犯三箇条」に限定し、地頭の年貢滞納をいましめ、国司・荘園本所の裁判には干渉しないことを表明しています。

7条

幕府の裁判上の大原則を示しています。頼朝~政子までの将軍から与えられた所領に対しては、たとえそれ以前の所有者であっても裁判を起こしてはならないというものです。

つまり、頼朝・頼家・実朝・政子の時代に決められた所領は、どんな理由であれ覆らないのです。これは父北条義時が定めた慣例ですが、ここで御家人所領保護の大原則を再確認しています。

8条

たとえ御下文(所領を支配する権利が認められた書状)をもっていても、現実にその土地を支配(農民から年貢を取り立てを行うなど)せずに20年以上過ぎていたら、その権利は無効になるとしています。

逆に言えば、書類上では仮に権利はなくても、20年以上その土地から年貢を取り立てるなど、現実に支配していたら、その者を正当な支配者として認めるということになります。

この規定を「年紀法」と呼びますが、これによって御家人たちの所領の権利が明確に保護されることになりました。

つまり、いつの頃かわからない昔の旧領主によって突然訴えられ、領地を剥奪される心配がなくなったのです。御家人たち

この大原則は、現代の『民法』にも生きています。

民法162条1項には、「20年間、所有の意思をもって、平穏に、かつ、公然と他人の物を占有した者は、その所有権を取得する」とあります。

この7条と8条こそが、御家人所領保護の大原則となりました。

ちなみに、後醍醐天皇の「建武の新政」では、この年紀法が無視されたために大混乱が生じ、武士たちの不満が噴出します。

9条以下

謀叛人・殺人・盗賊・放火・密通・文書偽造・悪口などの犯罪に対する刑事罰の規定や、相続、裁判手続きの不正を禁止するものなど、多くの条項が盛り込まれています。

式目の意義

先ほど、民法162条のお話しをしましたけれども、『式目』が制定されたことは、鎌倉幕府にとって意義があっただけでなく、後世の日本にとっても大きな意義がありました。

8世紀初頭に制定された『律令』は、大陸の律令を輸入してつくられたものでしたが、『式目』は「武家のならい、民間の法」として、日本独自の風習・習慣から生み出されたという点で意義があります。

また『律令』は、一部の法律家以外は理解できない難解極まる法律だったのに対して、『式目』は漢字で記されているものの、簡単な文章で書かれていることから、武一辺倒の御家人にも理解できる内容だったのです。

『分国法』へつながる式目

『式目』は、鎌倉・室町両幕府の基本法典として長く効力を持ち続けることになります。

『式目』は、体系的に編纂された法典ではなく、その時々に「式目追加」という形で発布されていきます。

この「式目追加」に関しては、その全てが一般に広く徹底されたわけではありませんが、泰時が制定した『式目』だけは周知徹底され、重要視されていました。

『式目』が発布されて10年以上も経つと、御家人たちは、やがてそれぞれの支配地域に「独自の成文法」を制定するようになりますが、『式目』はその中にも取り入れられました。

のちに戦国大名として、九州東北部にその名をとどろかせた大友氏の祖先が、「新御成敗状」と「追加」合計44ヶ条の成文法を、守護だった豊後国に対して公布しました。下野の宇都宮氏は『宇都宮家式条』として家法を制定しています。

その内容は、明らかに『式目』の法令によったものでした。

これらの御家人たちの成文法制定の動きは、さらに後世になって、戦国大名の各々が制定した『分国法』へと連なっていきます。

武家初の成文法である『式目』は、何百年も経た『分国法』に影響を与えている点でも大きな意義があるのです。

江戸時代以降になると、寺子屋の「読み・書き」の教科書に使われます。

武家初の法典『式目』は、鎌倉幕府や御家人だけでなく、後の世の大名の領国経営から庶民の教育まで幅広く利用され続けたのでした。

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