正中の変・後醍醐天皇、倒幕計画を立てるも隙だらけで失敗

鎌倉時代
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1321年(元亨元年)、後宇多上皇の院政が停止され、後醍醐天皇の新政がはじまりました。後宇多上皇が院政を停止した理由はよくわかっていません。

念願の「治天の君」の地位を手に入れた後醍醐天皇は、いよいよ倒幕に動きます。

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後醍醐天皇の倒幕計画の源泉

後醍醐天皇は即位できたと言えども、父後宇多上皇は、いずれ孫の邦良親王に皇位を継がせようと考えていたようです。つまり、後醍醐天皇は邦良親王が即位するまでの「つなぎ」の天皇というわけです。

天皇家は持明院統と大覚寺統に分裂して久しくなっていましたが、ここにきて、大覚寺統の中でも後醍醐天皇と邦良親王の対立によって分裂の危機を迎えます。「つなぎの天皇」後醍醐天皇はいつ譲位を迫られてもおかしくない立場だったのです。

 

両統迭立

 

「つなぎ」であることを知った後醍醐天皇は激怒し、その宿願は両統迭立(りょうとうてつりつ)という原則を超えてでも自分の皇位を安定させ、自分の子孫へ皇位を継承させることになりました。

→両統迭立の経緯

鎌倉幕府滅亡・南北朝時代の要因となった「両統迭立」を解説
のちに南北朝時代の要因となる天皇家の分裂は、1272年(文久九年)、北条時宗が二月騒動で庶兄の時輔を誅殺したころに起こりました。 鎌倉時代に始まった天皇家の分裂は、1392年(明徳三年)に室町幕府三代将軍足利義満によって合...

しかし、皇位継承には幕府の意向が大きく影響していました。後醍醐天皇の宿願である皇位を維持して子孫に継承させるには、両統迭立の原則に立つ幕府の存在が大きな妨げとなっていました。ですから、後醍醐天皇は即位した当初から、鎌倉幕府の打倒を考えていたと言われています。奇しくも、この時期の鎌倉幕府の政治機能は停滞し、諸国で悪党が活躍するなど不穏な空気が漂っていましたから、後醍醐天皇の倒幕計画は悪党の勢力を巻き込みながら展開していくことになります。

もし、幕府が両統迭立を破棄し、後醍醐天皇の皇位と子孫への継承を幕府が保証したならば、後醍醐天皇は倒幕をする理由はなくなり、鎌倉幕府が滅亡することもなかったかもしれません。

そんなことにならなかったからこそ、後醍醐天皇の倒幕運動によって、鎌倉幕府は滅亡したのですが・・・。

このように、後醍醐天皇による倒幕計画は、自身の皇位に関わる問題から端を発したものでした。

 

正中の変

後醍醐天皇は親政を始めると、訴訟機関として記録所を設置し、日野俊基を蔵人(くろうど)に登用します。このような家格を無視した人事を次々と行い、政治の刷新を行っていきました。

さらに、後醍醐天皇は京都を中心とする商業に関する法令を次々と発布していきます。1322年(元亨二年)に発布された、洛中酒麹役賦課令(らくちゅうさけこうじやくふかれい)と神人公事停止令(じにんくじていしれい)です。

洛中酒麹役賦課令は諸社に属していた洛中の酒屋を天皇の支配下に入れ、直接酒麹役を賦課しようとしたものです。現代でいうところの酒税を天皇の収入源にしようとしたといえるでしょう。神人公事停止令は、神人(諸社に属して商業活動に従事した者)に対し、神社が公事(税)を賦課することを禁止したものです。どちらも天皇が京都を直接支配することを意図したものでした。

これらの新しい政策が行われると同時に、倒幕計画は密かに進められていました。天皇は無礼講と称する会合を開き、ほとんど裸で酒を酌み交わしながら(つまり酒池肉林)、幕府転覆をはかるという斬新な会合でした。そのメンバーは公家からは日野資基・俊基・花山院師賢・四条隆資、僧侶は玄基、武家からは足助重成・多治見国長らが参加していました。

1324年(元亨四年)6月、後宇多上皇が崩御します。そして9月23日、後醍醐天皇は日野資朝・俊基らの側近や足助重成らの武士を集め、北野神社(北野天満宮)の例祭(北野祭)で必ず起こるという「喧嘩」に乗じて六波羅探題を襲撃することを決めます。

しかし、事前に六波羅探題に情報が漏れます。倒幕のメンバーに入っていた土岐頼員から漏れたのです。しかも頼員は妻にもらし、妻から妻の父で六波羅奉行人斎藤利行へと伝えられました

六波羅探題は大軍で、後醍醐天皇方の武士である土岐頼定・頼兼、足助重成・多治見国長らを討ち取ります。そして、日野資朝・俊基らも捕らえられ、鎌倉に送られました。

計画は失敗に終わりました。資朝は佐渡へ流罪、俊基は赦免されるも蟄居謹慎の日々を送ることになりました。

この年は12月に元亨から正中へと年号が変えられたので、この事件を正中の変とよびます。

後醍醐天皇と邦良親王と持明院統

この事件は「天皇による謀叛(当今御謀叛:とうきんごむほん)」などとも評されています。後醍醐天皇は幕府に対して、すべて「陰謀の輩(いんぼうのやから)のやったことである」と釈明した文書を万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)に持たせ鎌倉に下向させています。陰謀の輩とは日野資基・俊基らのことです。そのおかげもあってか、後醍醐天皇は処罰を免れることができました。

正中の変の後、同じ大覚寺統で皇太子となっていた邦良親王の勢力は譲位を求めました。持明院統も、皇位継承について激しく幕府に要求しました。

しかし、後醍醐天皇は譲位を考えていません。考えるはずもありません。逆境になればなるほど執念を燃やすのが後醍醐天皇の性格的特徴と言えるでしょう。

この邦良親王・持明院統・後醍醐天皇の三つの勢力は、幕府に使者をしきりに派遣し、それぞれの主張を幕府に訴えています。その様子は競馬(くらべうま)のようであったと評されています。

1326年(正中六年)3月、邦良親王が没してしまいます。彼にかわる皇太子をめぐる争いも、幕府に判断が求められました。両統迭立の原則によって、幕府は持明院統の人物を皇太子に指名します。のちの光厳天皇で上皇となったのち、北朝の治天の君として院政を敷きます。

皇位継承は大覚寺統から持明院統への交替が基本路線になったことが確定します。後醍醐天皇が自分の子孫に皇位を継承させるには、もはや幕府を倒すほかなくなったのでした。後醍醐天皇は、今度は用意周到に倒幕計画をすすめていくのでした。

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