鎌倉時代の東国武士・強さの秘密

鎌倉時代
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現代においても、東日本と西日本では風習が違ったり、人々の気質が違っていたりと、東と西では何かと違う点があります。

教育やテレビ・ネットなどを通じて、そういった差は小さくなりつつあるといわれる現代でも違う点があるのですから、鎌倉時代ではその違いがかなり大きかったことは容易に想像がつきます。

今回は、東国武士と西国武士の違いを説いた斎藤実盛の話から、なぜ東国武士が強かったのか見ていきましょう。

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『平家物語』にみる東西武士の違い

『平家物語』には、頼朝討伐軍の総大将に任ぜられた平維盛が斎藤実盛に対し、東国武士について質問する逸話が記されています。

斎藤実盛は武蔵出身の武士で、主君を源氏から平氏に替え、源義仲によって討たれます。『平家物語』では、結構重要な役まわりとなっています。

平維盛は、「お前ほどの強弓を引く勢兵は、(関東)八ヶ国にどれほどいるのか?」と斎藤実盛に問います。

実盛は笑いながら維盛に答えます。

「御大将は、この実盛を強弓の武者とお思いでございますか?私ほどの者は八ヶ国にいくらでもおります。東国武士の弓は三人張り・五人張り、矢の長さは十四束・十五束です。

矢継ぎ早に射出す一矢で二、三人を射落とし、鎧の二、三両を射通します。大名には部下五百騎以下の者はおりませんが、その中にこうした強弓の精兵二、三十人はおります。無下の荒郷一所の主人でも弓の上手の二、三人はいましょう。

馬は牧場から選びとり、飼いならした逸物を一人に五匹・十匹はひかせております。朝夕の鹿狩り・狐狩りに山林を家と思って乗り回していますゆえ、どんな難所でも落ちることはございません。

坂東武士の習いで、合戦には親にも討たれよ、子も討たれよ、死ねば乗りこえ乗りこえ戦います。西国の戦は、親が討たれれば供養の法事をすませ、忌が明ければまた戦をし、子が討たれれば嘆いていくさを止めます。兵粮米がなくなれば田をつくり、取り入れてはまた戦を始め、夏は暑い、冬は寒いと申される。東国のいくさは、このようなことはござりまん。

味方の兵はみな畿内近国のかり武者どもで、親が傷つけば、それにかこつけて一門ともに退却し、主人が討死すれば郎党は逃げ失せます。馬は博労から買い集めたものばかり、京を出たときは元気よく見えますが、今はもう疲れていて、ものの役に立ちません。人といい、馬といい、西国の二十騎・三十騎がかりでようやく東国の一騎に相当するくらいでしょう」

これを聞いた平家方の武士は、東国武士に恐れおののいたという。

水鳥が羽ばたく音を聞いて、戦わずして平家軍が敗走した「富士川の戦い」の前夜の話です。

「弓」と「馬」

斎藤実盛の平維盛への回答は、「弓馬」と「東西の戦のやり方の違い」について説明しています。

当時、「弓馬の家」といえば武士の家をさし、「弓馬の道」とは武士の道徳をさします。そして、弓と馬は武士のシンボルで、最も重要な武器でした。

東国武士の弓が「三人張り・五人張り」というのは、弓の弦を張るのに、3人がかり・5人がかりで張るということです。1人が弦をかけ、残りが弓を押し曲げるのです。

現代の弓道の弓の弦を張るのは2人がかりですので、鎌倉武士の弓の張りの強さがイメージできるのではないでしょうか。

矢が「十四束・十五束」というのは、矢の長さが手のひら「十四・十五つかみ」ということで、1メートル以上の大きい矢ということです。

鎧兜に身を固めているとは言っても、兜の真正面・首回り、鎧の引き合わせ(右わきで胴と脇立を引き合わせるところ)の部分は何のガードもなかったので、この部分を「東国の強弓」で狙われると「終わり」です。

また、当時の鎧兜は継ぎ目や隙間が多かったので、この部分を狙って矢を射られると「ヤバい」わけです。

東国には、強弓を引きしぼり、百発百中で敵兵を射る武士が多くいたのです。源平「屋島の戦い」で平家方の扇の的を撃ち落としたことで有名な「那須与一」はその一人でしょう。

東国は、古来より軍馬の供給源でした。信濃や甲斐、関東平野は良質の軍馬の産地で、朝廷の経営する牧馬が各地にありました。

弓が敵を倒すのに重要な武器だったことを説明しましたが、当時の戦いは「一騎打ち」と言われるように、馬にまたがっての個人戦が主体で、騎馬戦が第一でした。ですから、良質の軍馬をもつことは武士にとって重大な問題だったのです。

東国武士は、良質な軍馬を容易に手に入れる環境にあったのです。

弓矢の技術も、馬上での弓術でなければ実戦で役に立ちませんが、日ごろから流鏑馬・笠懸・犬追物や狩りを通して馬に乗り慣れ、人馬一体となっていたのが東国武士なのです。

関東平野という大自然

『平家物語』で斎藤実盛は、「親も討たれよ、子も討たれよ、死ぬれば乗り越え乗り越えたたかふ候」という東国武士と、生命の安全を第一に行動する西国武士の違いを述べています。

死すら恐れない豪勇な東国武士の前に、文明的で合理的な畿内西国武士はかなわないと言っています。

当時の東国は、京都・畿内から見れば「未開の地」。その未開の地を開拓していたのが東国武士たちです。彼らは、「文明」と対極をなす「大自然」と一体となって日々を暮らしていたのです。

現代の関東ではなく、建物も何もない、どこまでも広がる大草原の関東平野を想像してみてください。西を見れば富士山。東を見れば筑波山・・・

豪勇な武士たちが生まれてくる土壌として十分でしょう。

むすび

中央貴族から、時には「東夷」とさげすまれ、時には「額には矢は立つとも、背には矢は立てじ」と賞賛された勇猛果敢な東国武士の強さは、弓馬の日々の鍛錬と関東の大自然が生み出したといえるのかもしれません。

 

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