北条時頼の時代

北条泰時の時代

4代執権・北条経時の生涯

得宗北条氏の中で、もっともマイナーと思われる人物が4代執権北条経時。それもそのはず。たった4年しか活動していないので。 しかし、この4年の間に、将軍頼経を更迭して、将軍と執権の対立関係を解消し、評定衆の改革も行って裁判制度の迅速化をはかる...
鎌倉時代

鎌倉幕府6代将軍・宗尊親王の生涯

かつて、3代将軍源実朝が暗殺された後、幕府は後任の将軍に後鳥羽上皇の皇子の関東下向を要請しました。 このことは、実朝が生前のとき、後鳥羽上皇の乳母で院の実力者藤原兼子と北条政子の間で決められていたことだったのですが、後鳥羽上皇は皇子の鎌倉...
鎌倉時代

金沢文庫設立者・金沢実時の生涯

金沢文庫。本来の読み方は「かねさわぶんこ」が正しいのですが、神奈川県立金沢文庫も京急金沢文庫駅も「かなざわぶんこ」と呼ぶので、「かなざわぶんこ」が一般的な金沢文庫。 金沢文庫は、決して出版社の名前ではありません。鎌倉幕府随一の文化人・教養...
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鎌倉時代

足利義氏【後編】・関東宿老と鎌倉足利氏の全盛期

足利氏3代当主足利義氏は、3代執権北条泰時とは従兄弟であり、娘婿でもあり、その関係は強固なものだったようです。 この関係は後年、北条泰時の「関東棟梁」、足利義氏の「関東宿老」と称されるようになります。北条氏との強固な連携と、北関東に築いた...
鎌倉時代

足利義氏【前編】・和田合戦と承久の乱

鎌倉時代における足利氏の基礎を築いたといえる足利義兼は、1199年(正治元年)3月8日に頼朝の死を追うようにこの世を去りました。 義兼の子供たち 義兼の子には太郎義純、二郎義助、三郎義氏、四郎義胤(二郎義助の子)と2人の娘がいました。こ...
鎌倉時代

足利義兼・鎌倉幕府内で足利氏の基盤を作った人物

将来を期待されながらも、若くしてその一生を終えた足利氏祖の足利義康(1127~1157)。その義康のあとを継いだのは、熱田大宮司藤原季範の娘を母とする三男の義兼(よしかね)です。 義兼の母は、源義朝の妻で頼朝の母である由良...
鎌倉時代

【引付衆設置など】御家人の負担軽減策を行った北条時頼

北条時頼は、寄合という秘密会議や執権職を譲渡した後も実権を握り続けるなどして、自身の立場や北条得宗家を中心とした幕府政治を強化していくようになります。 その一方で、優れた御家人政策を行っていました。 つまり、北条一族内には強い態度で...
鎌倉時代

【親王将軍】時頼、摂家将軍追放し宗尊親王を将軍に擁立

1247年(宝治元年)11月、4代将軍藤原頼経が鎌倉から追放されるかたちで帰京した後も、頼経の子頼嗣が5代将軍として鎌倉に残りました。 当時、頼嗣は若干9歳。明らかに傀儡将軍でした。 しかし、幕府権威・御家人の象徴である将軍ですので、父...
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