金沢文庫設立者・金沢実時の生涯

鎌倉時代
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金沢文庫。本来の読み方は「かねさわぶんこ」が正しいのですが、神奈川県立金沢文庫も京急金沢文庫駅も「かなざわぶんこ」と呼ぶので、「かなざわぶんこ」が一般的な金沢文庫。

金沢文庫は、決して出版社の名前ではありません。鎌倉幕府随一の文化人・教養人・学者ともいえる金沢流北条実時が、自ら集めた和漢の書を保管する書庫を武蔵国久良岐郡六浦荘金沢郷(横浜市金沢区)に創設したことに始まります。

得宗家に注目が集まりやすい北条氏ですが、今回は「こんなにすごい北条氏庶流が幕府にいたの??」と思わずうなってしまう、そんな金沢流北条実時について心を馳せたいと思います。

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誕生から小侍所別当就任まで

1224年(元仁元年)、父金沢流北条氏祖実泰と母天野政景との間に生まれます。2代執権北条義時の孫にあたります。1233年(天福元年)12月29日、伯父で3代執権北条泰時邸で元服しました。実時10歳。

金沢流北条氏系図

1234年(文暦元年)6月30日には、出家した父実泰に替わって小侍所別当職に補任されます。実時はまだ11歳でしたから、幕府内では時期尚早との声も多数あったようです。しかし、執権泰時は自らが後見になることを条件に実時の就任を推薦します。このことは、実時が泰時の得宗家に一員に加えられたことを意味していました。

小侍所は将軍に近侍して御家人の宿直・供奉を管理し、将軍とその御所の警備を統括する役所のことで、のちに別当(長官)は執権・連署などへの登竜門的位置づけになりました。

15歳になると、掃部助と宣陽門院蔵人に補任されます。

北条時宗の教育係

1256年(康元元年)、実時は小侍所別当に再任されます。その任期中の1260年(文応元年)2月、10歳の北条時宗が小侍所別当となり、別当は2名体制となります。このとき、実時はこれまでの実績と経験・教養が買われて、時宗の教育を担当しています。

実時の仕事に対する姿勢を示すエピソードが残されています。

小侍所の役割の一つに、将軍の出御の際に供奉する御家人の名簿を作成する職務がありました。1258年(正嘉二年)7月。供奉人に漏れた宇佐美祐泰が、どうにかして名簿に加えてほしいと実時に訴えてきました。しかし、実時は、将軍の意向に沿って決めているだけなので私の一存ではどうにもできない(私の計らいにあらず)と返事します。翌日になって策を講じて書類を準備して訴えてきた祐泰に対し、これは将軍の意志を示したものではない(この状、まったく恩許の所見に非ず)とその書類を突き返したといいます。祐泰はさらに別ルートから書類を得てそれを提示しましたが、実時の意見は変わらなかった(前答、前の如し)といいます。

このように冷徹なまでに職務に忠実であろうとする実時の姿勢は、実時の教育を受けた時宗に多大な影響を与えたことは間違いないでしょう。後年、蒙古国使の屈服要求に対して断固として拒否し続けた時宗の姿勢は実時譲りなのかもしれません。

執権のブレーンとして

執権泰時は、実時が学問を好むことをたいそう気に入ったようで、嫡子時氏が早世したことによって後継者と考えていた孫の経時(1224~1246)のブレーンとして付けることに決めます。経時と実時は同い年でもありました。

ところが、泰時の死後執権職を継いだ経時は、1246年(寛元四年)4月に病のため執権職と家督を弟時頼(1227~1263)に譲り、まもなく没します。

5代執権に就任した時頼は、得宗家に対抗する勢力に成長していた前将軍藤原頼経と名越流北条氏を幕府から排除します。この事件は宮騒動と呼ばれています。

その後、北条時頼は自邸に北条政村・北条実時・安達義景を招いて深秘御沙汰(しんぴのごさた)と呼ばれる秘密会議を開き事件の後始末を話し合ったと言われています。深秘御沙汰はのちの幕府の最高意思決定機関「寄合」の源流です。実時は時頼の信頼を一身に受けていたのです。

【宮騒動・寛元の政変】執権経時・時頼兄弟による反執権派追放劇
1219年(承久元年)、3代将軍源実朝が2代将軍頼家の遺児で鶴岡八幡宮別当の公暁によって暗殺され、源氏将軍は3代で途絶えます。 実朝後の鎌倉殿を継ぐため、わずか2歳で鎌倉に下向した三寅(さんとら)は、1225年(嘉禄元年)に元服し藤原頼経...

1247年(宝治元年)に勃発した宝治合戦では、実時は将軍御所の守備につきました。そして勝敗が決したあと、三浦方の残党が金沢氏の拠点である久良岐郡六浦荘(横浜市金沢区)に逃げ込んだため掃討作戦を行っています。

【宝治合戦・三浦氏滅亡】北条時頼と安達一族の謀略!?
1246年(寛元四年)、5代執権北条時頼は前将軍藤原頼経を京都に追放しました。頼経の側近として仕え、反執権勢力を構成していた有力御家人も幕府評定衆から追放されました。 この事件は宮騒動あるいは、寛元の政変と呼ばれていますが、この反執権勢力...

1248年(宝治二年)、北条一族の宿老北条政村の娘(金沢殿)との間に顕時が誕生し、1249年(建長元年)には初代鎮西探題となる実政が誕生しています。

幕府でのスピード出世

1252年(慶長四年)4月30日に引付衆に補任され、翌年5月2日には評定衆に補任されました。このとき実時30歳。さらに1255年(建長七年)12月13日に越後守に補任され、1256年(康元元年)4月29日に引付三番頭人に補任されます。北条重時が出家を遂げたことによって北条政村が連署に昇格したことによる欠員補充の人事でした。このとき実時33歳。

1246年(寛元四年)の深秘御沙汰に出席して以来、わずか10年の間にスピード出世を遂げています。この後も、実時は引付頭人の序列を上げ、1273年(文永十年)には引付一番頭人となっています。

政治家としての実時は、得宗家に対して忠勤に励む分家の当主で、その有能さ故に宿老として重く用いられたのでした。

実時の置き文

1274年(文永十一年)、蒙古が襲来しました。世にいう文永の役です。蒙古を撃退した幕府は、翌年の1275年(建治元年)に時宗は北陸を含む西国の守護を一斉交替させます。再度の蒙古襲来に備えるためでした。異国防御の最前線の一つ豊前国の守護には金沢実時が補任されます。しかし、実時はすでに病を患っていたようで本拠地武蔵国久良岐郡六浦荘金沢郷で療養していました。

そこで、実時の名代として鎮西に下向することになったのが金沢実政でした。

実時は、鎮西に下向する実政にあてて「置き文」を書いています。「置き文」とは子孫のために書き置いておく文書のことです。実時の「置き文」の内容は、鎮西でのふるまいに関する注意事項が主な内容でした。最後の部分しか残されていないことから詳細は不明とのことですが、どのような人物を召し抱えるべきか、あるいは部下に対して信賞必罰でのぞむようにといったことが記されています。

幕府随一の教養人・文化人で、常に真摯に職務に当たってきた実時らしいエピソードではないでしょうか。

1276年(建治2年)10月23日、金沢実時は53歳の生涯を閉じます。

実時の死後、実政は弘安の役で指揮官として元軍を撃退し、初代鎮西探題に就任し九州でその生涯を終えます。子の政顕、孫の種時も鎮西探題として(正式には種時は探題代理)九州で重きをなしますが、鎌倉幕府滅亡とともに九州で滅びます。

【鎮西探題②】鎮西探題の成立と初代探題金沢実政
元軍の再来襲に備えて、幕府は九州の御家人・非御家人を防備へ動員し続ける必要がありました。 そのような緊迫した中で、恩賞をめぐって九州の武士たちが鎌倉や六波羅にまで訴訟に来るというのは、持ち場を離れることになり幕府としては容認しがたいもので...
【鎮西探題③】歴代の鎮西探題。選任から見えてくる得宗家の思惑。
元の再来襲に備えて異国警固番役に就いている御家人・非御家人が、恩賞や所領争いのために鎌倉や六波羅に来ることは幕府としては困る話でした。 なぜなら、防備の持ち場を武士たちが離れてしまうからです。 そこで幕府は、1286年に鎮西談議所を設置...

 

文化人・教養人としての実時

実時は幼少のころから学問が好きだったことが伝えられていますが、20代半ばになると北条政村を中心とする勉強会・サークルのようなものに参加し、和歌や源氏物語といった日本の古典を学んでいます。この頃詠んだ実時の和歌は後藤基政の「東撰和歌六帖」に収められています。

頼朝の頃は「武」一辺倒だった東国武士も、少し時代が下がると源実朝や摂家将軍の影響もあって文学・文化を熱心に学ぶようになります。

実時の学問は、清原教隆から漢文の世界を、北条政村から和文の世界を学んだことに特徴があると言われています。清原教隆は明経道(儒学)を家学とする清原氏の庶流で、4代将軍藤原(九条)頼経の父道家の命によって鎌倉に下向し、5代将軍九条頼嗣に指南しています。実時の学んだ書には、日本法制の基本書「律」と「令義解」、歴代天皇が学ぶ治世の基本書「群書治要」、儒教の基本図書の注釈書「古文孝経」・「春秋経伝集解」などがありました。

実時は、清原教隆から国を治める者はいかにあるべきかという政治家の最も基本的な部分を学んでいたのです。

この清原氏の家学は漢唐の儒学で、後醍醐天皇が熱心に学んだという朱子学(宋学)ではありませんでした。簡単に言えば、漢唐の儒学は「礼・仁」を重視する儒学で、朱子学は「秩序・身分制度」の儒学と言われています。「士農工商」という身分制度で統治しようとした徳川幕府が重視したのは朱子学でした。

 

鎌倉幕末の北条氏にも漢唐の儒学の考えが息づいていたとすれば、宋学の後醍醐天皇とは相いれない関係だったと言えます。

 

足利貞氏の正室は金沢実時の孫娘

足利高氏の父貞氏は、金沢実時の孫娘(顕時の娘)を正室に迎えています。貞氏が得宗家から正室を迎えていないことを理由に、足利氏が北条氏から軽んじられたとする説があります。しかし、北条一族の実力者北条実時の血を引く娘を貞氏に嫁がせたことは、得宗家の足利氏を重んじる姿勢に変化はなかったと思うのです。

金沢流北条氏系図

そして、貞氏と実時の孫娘の間に生まれた「高義(生没年未詳)」こそが本来足利氏の当主になるはずだったのです。そして、高義の名をみてわかるように高義の「高」は得宗北条高時の一字。そして、「義」は河内源氏棟梁が名乗ってきた「義」の字が復活しています。

足利氏は義氏以来、北条得宗の「諱名」+足利氏の通字「氏」を名乗ってきましたが、貞氏の子「高義」の代において、ついに足利氏は北条得宗家から「源氏嫡流」を名乗ることを公認されたと言えるのです。

しかし、残念ながら高義は早世してしまい、高氏(のちに尊氏)が足利氏当主となるのでした。

参考文献

秋山哲雄『鎌倉幕府滅亡と北条一族』吉川弘文館。

 

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