【鎮西探題③】歴代の鎮西探題。選任から見えてくる得宗家の思惑。

鎮西探題
スポンサーリンク

元の再来襲に備えて異国警固番役に就いている御家人・非御家人が、恩賞や所領争いのために鎌倉や六波羅に来ることは幕府としては困る話でした。

なぜなら、防備の持ち場を武士たちが離れてしまうからです。

そこで幕府は、1286年に鎮西談議所を設置し、さらに1293年には権限を強化した鎮西探題を設置することで、彼らが持ち場を離れることを防ごうとしました。

その初代探題には、実力・経歴とも申し分のない金沢流北条実政が就任します。

【鎮西探題①】鎮西談議所と異国打手大将軍
東国政権として誕生した鎌倉幕府は、西国に勢力を伸ばすにつれて出先機関を作っていきます。幕府の拠点を西へ移すという発想はなかったようです。鎌倉幕府は、承久の乱を機として西国支配強化のために六波羅探題を設置しました。 今回は、蒙古襲来・元寇を...

今回は、金沢実政以降の鎮西探題を見ていきましょう。

スポンサーリンク

金沢政顕・種時父子、阿蘇随時

1301年(正安三年)、金沢実政の息子の政顕が鎮西探題となります。出家した父実政の地位を継承しての就任でした。実政は、1302年(乾元元年)に54歳で没します。

政顕は、1269年(文永六年)に鎌倉で生まれました。父実政が鎮西に下向したのは1275年(建治元年)ですので、彼は7歳で父とともに鎌倉から鎮西に赴いたことになります。

1301年(正安三年)11月、政顕は33歳で鎮西探題に就任しました。1304年(嘉元二年)から3年の間に上総介に任ぜられていました。

政顕の権限は、九州における相論(訴訟)に裁許(判決)を下すなど、父実政と同じものだったと考えられています。しかし、1315年(正和四年)7月に鎮西探題を辞任して以降、政顕の活動は確認できなくなっています。ですから、いつ没したのかも明らかではありません。

阿蘇随時が鎮西探題に就任するまで、金沢政顕の子の種時が探題代理を務めていたようです。金沢種時はいつ生まれたのか定かではありません。父政顕が探題職を辞任した1315年(正和四年)10月から1316年(正和五年)にかけて探題職を代行したようです。

1317年(文保元年)頃、阿蘇流北条随時(ゆきとき)が鎮西探題となりました。随時の父は定宗で、定宗の父は時定です。時定は時頼の弟で時宗の叔父にあたります。

鎮西探題系図

時定はかつて、肥前の守護となって鎌倉から現地に下向した人物でした。時定は鎮西奉行に任命されていますから、異国征伐の一環として下向したと考えられます。得宗伝来の所領である肥後国阿蘇郡を拝領したことから阿蘇流を名乗ったと言われています。

時定の母は、松下禅尼(安達景盛の娘)です。松下禅尼は、執権経時・時頼の母ですから、経時・時頼の同母弟となります。

時定が鎮西に下向する頃の執権は時宗でした。時宗にとっては存命する唯一の叔父です。

ですから、異国征伐の指揮官として時宗の名代(代理)で鎮西に下向するのに適任だったと考えられます。そして、その孫にあたるのが随時(ゆきとき)なのです。

祖父の時定が鎮西に赴いたのは1281年(弘安四年)。随時が生まれたのはその10年後の1291年(正応四年)ですから、随時は鎌倉を知らずに鎮西で生まれ育ちました。

その随時は、1315年(正和四年)に鎮西から鎌倉に赴き、幕府で二番引付頭人となっています。

1315年(正和四年)は、鎮西探題金沢政顕の活動が見られなくなり、その替わりに種時が探題の代理を行っていたのでした。

1317年(文保元年)頃になると随時が九州に戻って鎮西探題となります。

このように鎮西探題は、金沢実政・政顕と継承されてきましたが、政顕の子種時には継承されずに、得宗家に近い阿蘇随時が探題に就任しているのです。

金沢種時が鎮西探題を継承出来なったのは、得宗北条家が金沢氏の鎮西での勢力拡大を警戒したため、得宗に近い阿蘇随時を探題に就任させたという説があります。

その説に対して、金沢氏は特に所領を没収された形跡もないことから、意図的に得宗が金沢氏を排除したとはいえないという説もあります。

どちらが正しいのかは明かではありませんが、その状況を追ってみますと、探題に就くには条件があったと考えられるのです。

探題の条件

鎮西探題の本来の職務は、異国征伐の名のもとに異国警固を行う軍事的なものです。京都の六波羅探題も、承久の乱後は軍事的なものでした。

鎮西談議所が設置され鎌倉から下向した北条兼時・名越時家は、異国打手大将軍でした。初代鎮西探題に就任した金沢実政も、もともとは異国征伐の指揮官として鎮西に下向しています。鎮西探題の本来の役割は軍事指揮官です。

軍事指揮官たる探題は、鎌倉から派遣する形をとっていました。これは六波羅探題も同じです。鎌倉の威光を高める狙いがあったのかもしれません。

つまり、鎌倉からくる探題はエラい!としなければならないのです。

異国打手大将軍として鎮西に下向した兼時は、それまでは六波羅探題北方として京都にいたのですが、わざわざ鎌倉に戻ってから鎮西に向かっています。

金沢実政も、父実時の名代として鎌倉から派遣された指揮官でした。実政の跡をついだ政顕は、鎌倉生まれで7歳までは鎌倉にいました。

探題は鎌倉から派遣されるのが原則ですが、現地での親子間の継承は、鎌倉生まれの子に限って認められていたのでしょう。

政顕の子の種時は生まれも育ちも鎮西です。鎌倉出身ではない種時に探題の資格がなかった可能性があります。

政顕の後釜を、鎌倉から探題を派遣する必要が生じたのでした。

金沢実政の先例に従えば、幕府の一番引付の立場にあったのは赤橋守時でしたがまだ21歳。子供がいたとしてもまだ幼く、弟の英時も20歳以下です。

軍事指揮官である鎮西探題のポストには、幕府内で一番引付頭人の名代(代理人)を派遣することになっていました。それは、探題の強い責務に応えることができる人物でなければならなかったのです。探題は名誉職ではなくて実務能力が厳しく要求されていたのです。だから、守時の子や弟では話にならないのです。

そこで、探題の職務を全うできる人物として阿蘇随時が選ばれたのでしょう。

随時は異国征伐の一環として派遣された時定の孫ですから、鎮西での事情や存在感は十分だったと考えられます。あとは、鎌倉から派遣されたという形と実務を経験すれば探題としての条件が備わります。

このような経緯で、随時は鎌倉の一番引付頭人に継ぐ二番引付頭人で訴訟などの実務を1年間経験し、鎌倉から派遣された探題としての条件を満たしたのでした。

ところが在任わずか4年。1321年(元亨元年)6月に随時は没しました。

しかしなぜ、幕府は種時に対して、随時と同じことをしなかったのでしょうか?

考えられるのは、政顕が何らかの理由で急に探題の任務を遂行出来なくなり、種時が代理をせざるを得ず、種時を鎌倉から派遣するという形を取る余裕がなかったことが考えられます。

さらに、金沢氏が三代続いて探題を世襲することで、九州で得宗家を脅かす存在になることを恐れたということも考えられます。

種時も随時も鎮西生まれという点では同じです。むしろ、種時の方が父政顕の後を継いで代理として探題を経験していますから経験は豊かなはずです。

それでも敢えて、随時を探題を任命しているのですから、幕府としては鎌倉生まれではない探題の世襲は認めないという方針だったと考えることができます。

もちろん、種時が探題に相応しくない人物だったのかもしれません…

あるいは、史料が発見されていないだけで探題になっていたのかもしれません…

種時と随時を見てみると、探題に就く条件とは、

  • 鎌倉から派遣された者
  • 鎌倉の引付頭人かその名代クラス
  • 世襲ではないこと(鎌倉生まれは可)

が浮かび上がってくるのです。

種時は、1333年(元弘三年)に鎮西探題滅亡時に、最後の鎮西探題赤橋英時(執権赤橋守時の弟で、足利尊氏の妻登子の兄)とともに自害してその生涯を終えています。

以上、金沢政顕・種時父子と阿蘇随時の鎮西探題への就任から見えてくる、探題の条件と得宗家の思惑を探ってみました。

 

【鎮西探題滅亡】阿蘇治時と最期の探題赤橋英時
1331年(元弘元年)、後醍醐天皇の2度目の倒幕運動は失敗に終わりました。後醍醐天皇は幕府に捕らえられて隠岐へと流されます。 →元弘の変 しかし、その余波は畿内だけでなく各地に広がっていきました。 後醍醐天皇の皇子護良親王が吉野で...

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました