【親王将軍】時頼、摂家将軍追放し宗尊親王を将軍に擁立

鎌倉時代
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1247年(宝治元年)11月、4代将軍藤原頼経が鎌倉から追放されるかたちで帰京した後も、頼経の子頼嗣が5代将軍として鎌倉に残りました。

当時、頼嗣は若干9歳。明らかに傀儡将軍でした。

しかし、幕府権威・御家人の象徴である将軍ですので、父頼経と同じように、反執権勢力にかつがれる可能性は十分にありました。執権北条時頼は将軍の周囲を常に警戒する必要があったのです。

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摂家将軍の追放と親王将軍の誕生

1251年(建長三年)12月、矢作左衛門尉・長次郎左衛門尉久連・了行法師らが謀反を計画したとして、佐々木氏信・武藤景頼に捕らえられました。

北条氏被官(家来)の諏訪盛重が取り調べたところ、彼らは謀反の計画を白状します。そして、ある者は殺害され、ある者は配流されるという事件が起こりました。

この事件は、幕府の詳細な記録である『吾妻鏡』に詳しいことは記されていないので、なぜ事件が起こったのか?黒幕は誰なのか?といった具体的内容は不明です。

鎌倉時代よりあとの南北朝時代に記された『保暦間記』には、「前将軍頼経が京都にて謀反を計画した」と記しています。

執権時頼は、この謀反事件を朝廷の中心的人物で右大臣九条忠家と関連づけました。九条忠家は将軍頼嗣の従兄弟にあたり、前将軍頼嗣の将軍復帰を画策してもおかしくないからです。

この頃、源氏が足利氏や新田氏など居住地を苗字にしていったように、藤原氏も九条や二条など居住地を苗字にしていきます。

1252年(建長四年)2月、時頼は二階堂行方と武藤景頼を上洛させます。後嵯峨天皇の皇子を幕府の将軍に迎えようとしたのでした。

後嵯峨天皇は、北条泰時ら幕府の助力によって天皇に即位した経緯があるので、幕府の申し入れを拒否することなどできるはずもありません。

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3月1日、朝廷は親王の鎌倉下向について協議を行います。

3月17日、後嵯峨天皇の皇子で10歳の宗尊親王(むねたかしんのう)の下向を正式に決定。

3月19日、宗尊親王は鎌倉に下向するために、いったん六波羅探題に入ってから京を出発。

宗尊親王が鎌倉に向かっていたところ、鎌倉では5代将軍藤原頼嗣が将軍御所を出て、佐介流北条時盛邸に移ります。

4月1日、宗尊親王は鎌倉に到着し時頼邸に入りました。この日、宗尊親王に征夷大将軍の宣旨が下されます。6代将軍宗尊親王の誕生で、皇族初の征夷大将軍です。

4月3日、宗尊親王の到着と入れ違いで、前将軍頼嗣は追い出される形で鎌倉から京へ旅立ちました。

4月14日、宗尊親王の政所初めの儀式が行われました。これは宗尊親王が新しく鎌倉殿に就任したことを内外に示すセレモニーです。

2代執権北条義時以来の悲願だった親王将軍がこうして誕生しました。

時頼の専制政治の始まり

九条家を朝廷から排除

時頼は、皇族将軍の実現と並行して、京都の九条家の責任を追求します。「鎌倉年代記」には「光明峯寺禅定殿家(九条道家の一族)の多くが勅勘を蒙った」とあります。

九条道家は1252年2月に他界しています。4月に5代将軍頼嗣が鎌倉から追放されましたので、その少し前に他界したのです。

九条道家は頼嗣の祖父にあたります。つまり、4代将軍頼経の父でもあるのです。

ですから、力を持った幕府といえども、幕府の象徴である将軍の祖父である九条道家や出身の九条家をないがしろにはできなかったのかもしれません。

しかし、摂家将軍から親王将軍へ、あるいは九条道家がいなくなれば関係ありません。

時頼は、道家の孫で九条家長者候補の右大臣忠家を辞任に追い込んでいます。24歳という若さでした。

忠家が勅勘を解かれ、政治に復帰して関白に就任したのは21年後の1273年(文永10年)5月のことです。もし、復帰できていなければ九条家は摂関家を輩出できる家柄から転落するところでした。この復帰劇には、時頼の息子時宗の後押しがあったとされています。

執権辞任

1256年(康元元年)3月11日、大叔父で極楽寺流北条重時が連署を辞職し、その日に出家しました。重時は時頼を補佐し続けた大功労人です。

3月27日、重時の子で赤橋流北条氏の祖である長時が京都から鎌倉に戻ってきます。重時の出家に関連して呼び戻されたのでしょう。

3月30日、重時の弟で、伊賀氏の変に巻き込まれた北条政村が連署に就任しました。当時、52歳になっていた政村は執権を補佐するにふさわしい重みのある人物だったと思われます。

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1256年(康元元年)11月22日、時頼が執権職を赤橋長時に譲る事態が発生します。さらに、武蔵国に対する行政権・侍所別当、鎌倉の邸宅を長時に預けます。

実は時頼、これより先の9月25日に麻疹にかかり、11月3日に赤痢にかかっています。現代でも麻疹・赤痢は重病と言えるでしょう。鎌倉時代であれば、なおさら重病だったに違いありません。

時頼も相次ぐ重病にかかり気が弱くなったのでしょうか?

しかし、時頼は30歳の若さです。出家したときは健康状態も良くなってきていました。

出家の理由は、病であることは想像できますが、定かではありません。別の理由もあると考えられるのです。

『吾妻鏡』によれば、

家督(時宗のこと)がいまだ幼少なので、その中継ぎとして長時が執権になった

ということが記されています。

時宗が幼少であればなおさら、父時頼はもう少し執権として政務を行うべきではないでしょうか。

病で無理なら、執権長時・連署政村に後を委ねるべきのはずが、実質的には権力を掌握したままです。

ですから、出家した時頼に「深い読み」があったと考えるべきでしょう。

政権交代時に必ず争いがおこる北条氏

これまで北条氏が執権職を次世代に継承させるとき、それは失脚や病気が原因でした。たとえば、時政は失脚して義時が執権職に就任し、義時が病死して泰時が執権となりました。さらに泰時から経時、経時から時頼の継承も病死が原因です。

しかもほとんどの場合、次期執権をめぐる対立が表面化しています。

初代執権時政から2代執権義時へ執権職が移行するとき、義時は父時政を追放しています。

2代執権義時から3代執権泰時へ執権職が移行するとき、泰時と政村(正確には政村の母である伊賀の方と伊賀一族)が争っています。

3代執権泰時から4代執権経時へ執権職が移行するとき、経時と名越流北条朝時が争っています。

そして、4代執権経時から5代執権時頼へ執権職が移行するとき、時頼と名越流北条光時が争いました。

執権が交代するたびに、一族内でそのポストを巡って争いが起こっているのです。北条氏惣領の一族に対する統率力が弱い証拠と言えるでしょう。

また、執権職が惣領家に継承されるという一族内での認識は共有されていなかったことを物語っています。

執権が交代するたびに一族内で争いが起きることを考えると、時頼が30歳の若さで執権を譲り、しかも長時を中継ぎとして就任させることは、執権職が北条氏の惣領家で継承されるものであることを内外に示したことになるのではないでしょうか。

得宗専制政治の始まり

執権職を長時に譲り、出家して引退したはずの時頼ですが、実際は引退した時頼が政務の実権を掌握していました。

このことは、幕政の実質的最高権力が執権という役職から分離して、北条氏惣領=得宗へ移っていくことを意味していました。また、北条氏惣領=執権から北条氏惣領=得宗へと変わっていくのです。

幕府内・北条一族内いずれにおいても、得宗北条氏は最高権力者としての地位を獲得したのでした。

参考文献

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