時頼が始めた「寄合」とその事情を解説

鎌倉時代
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1246年(寛元四年)から1256年(康元元年)11月までの11年間、北条時頼は5代執権職にありました。

1256年、時頼は執権職を北条長時に譲った後も、1263年(弘長三年)11月に没するまで、政治の実権を掌握し続けました。北条長時は、この後登場する極楽寺流北条重時の息子で、赤橋流北条氏の祖です。そして、足利尊氏の妻である登子の実家でもあります。

この17年間におよぶ時頼の政治は、幕府政治における北条氏の専制化につながっていくのでした。

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宮騒動・宝治合戦

1246年(寛元四年)、時頼が執権職に就任すると、前将軍藤原頼経を中心として、名越流北条氏を中心に有力御家人が反執権グループを構成しました。

時頼は、いわゆる宮騒動(寛元の政変)で名越光時を失脚させ、前将軍頼経を帰京させて危機を脱します。

【宮騒動・寛元の政変】執権経時・時頼兄弟による反執権派追放劇
1219年(承久元年)、3代将軍源実朝が2代将軍頼家の遺児で鶴岡八幡宮別当の公暁によって暗殺され、源氏将軍は3代で途絶えます。 実朝後の鎌倉殿を継ぐため、わずか2歳で鎌倉に下向した三寅(さんとら)は、1225年(嘉禄元年)に元服し藤原頼経...

さらに、安達氏と三浦氏の確執を利用して有力御家人三浦氏を滅ぼします(宝治合戦)。

【宝治合戦・三浦氏滅亡】北条時頼と安達一族の謀略!?
1246年(寛元四年)、5代執権北条時頼は前将軍藤原頼経を京都に追放しました。頼経の側近として仕え、反執権勢力を構成していた有力御家人も幕府評定衆から追放されました。 この事件は宮騒動あるいは、寛元の政変と呼ばれていますが、この反執権勢力...

この宮騒動・宝治合戦は、時頼が北条氏の惣領(棟梁・リーダー)として、あるいは執権としての基盤を強化する上で、大きな意味がありました。

秘密会議「寄合」の始まり

3代執権北条泰時は、自身の立場の脆弱性を補うために、有力御家人や北条氏被官(家来)から構成され、政所・侍所を束ねる上部機関として評定衆を設置し、幕府内に合議体制を敷きました。そして、執権がその長になることで自らの地位を高めたのです。

 

泰時の執権政治~「評定衆と連署」の設置にいたる経緯と背景を解説
1224年(元仁元年)7月、伊賀方(いがのかた)らを中心とする伊賀氏の画策は失敗し、尼将軍北条政子・幕府宿老の後押しを得て、北条泰時は執権に就くことになります。 とはいえ、執権になった泰時の北条氏内の立場は、まだまだ弱いもので...

 

しかし、時頼が執権になる頃には評定衆を中心とした合議体制に変化が現れます

時頼は、名越流北条光時謀叛の噂が流れると、自宅に北条政村・金沢流北条実時・安達義景を招き深秘御沙汰(しんぴのごさた)と呼ばれる秘密会議=寄合を開いています。

その内容は記録に残されていないので、知ることはできませんが、秘密会議の後、後藤基綱・藤原為佐らが評定衆を除名され、三善康持が問注所執事を罷免されていることから、光時に味方した人々の処分が話し合われたと考えられています。

さらに1246年(寛元四年)6月10日、再び時頼邸に北条政村・金沢流北条実時・安達義景・三浦泰村、それに時頼の被官である諏訪盛重・尾藤景氏・平盛綱が集まり秘密会議の寄合が開かれました。

そして、6月13日に名越光時の配流と所領没収、上総秀胤の追放が行われ、前将軍頼経が7月11日に帰京していることから、これらの処置などが話し合われたようです。

宝治元年6月26日にも深秘御沙汰=秘密の寄合が行われています。時頼・政村・実時・義景が集まり、諏訪盛重がこれを奉行しています。この時は天皇・朝廷に対して、特に敬うべきという議論がなされたといいます。おそらく、幕府悲願の皇族将軍実現のための会議ではないかと推測されています。

このように、名越流北条光時・前将軍藤原頼経の鎌倉追放という非常に重大な事態に対処するために、時頼は最も信頼できる一部の人々を特別に集めたのでした。

秘密会議にみる時頼の立場

本記事冒頭で述べたように、1225年(嘉禄元年)北条泰時よって創設された評定衆は訴訟沙汰から政務まで取り扱っていました。

ですから、本来は名越光時や前将軍頼経の件に関して、執権である時頼は評定衆と合議して事態の解決をはかるべきだったのです。

ところが、評定衆の中に反執権勢力が存在する状況が生まれました。当然、反執権勢力に対処する話し合いを、反執権勢力がいる評定衆と行う馬鹿はいないわけですから時頼の行動は当然です。

この深秘御沙汰という寄合に出席した北条政村や金沢流北条実時は、北条氏の中でも時頼派です。安達義景は、松下禅尼として有名な時頼の母の兄です。これに時頼の有力被官諏訪氏や尾藤氏、平氏が加わり、この寄合は非常に身内的なものでした。

 

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このことから、時頼は一部の身内だけしか信頼をおくことができなかった状況だったと言えるのではないでしょうか。つまり、時頼の北条氏における惣領の位置は必ずしも盤石とは言えない状況だったのです。

時頼の北条一族対策

三浦氏滅亡後の7日。時頼は北条重時を京より鎌倉に呼び戻し、故兄経時の旧宅をその居所に定めました。この旧宅は故泰時の旧宅でもあったので、時頼の重時に対する配慮をうかがい知ることができます。

その直後、重時を別当連署に就任させ、政務を補佐させています。現在、宝治元年八月十七日附の幕府の公文書が残っていますが、これが時頼・重時連名で発給された最初の文書です。また、政所下文も建長三年十二月十二日附のものが最初ですが、別当として署名しているのは、時頼・重時の二人だけです。

かつて、泰時・時房によって行われた執権連署体制が、時頼・重時によって再び行われるようになりました。

泰時は、北条一族対策として叔父時房をバックに自分の立場を固めていったのですが、時頼も大叔父である重時をバックに北条一族内での立場を固めていく対策をとったといえます。

北条重時

この極楽寺流北条重時は、2代執権北条義時の男で、3代執権泰時の弟にあたります。時頼から見れば大叔父にあたり、さらに重時の娘葛西殿を娶っていました。つまり、時頼は叔母さんと結婚しているのですが、時頼より5歳ほど年下です。この頃にはよくある話です。

重時は時頼にとってもっとも信頼できる一族の一人だったに違いありません。1230年(寛喜二年)以来18年間、六波羅探題として政務を担当してきた経歴と能力、加えて50歳という北条一族内での重厚感は、きわめて重要な意味を時頼に与えたのではないでしょうか。

むすび

極楽寺北条重時を加えて、北条政村・金沢北条実時・安達義景が中心となり、これに有力被官が加わって、時頼政権を支えていきました。

さて、重時が政権に加わって以降、時頼が亡くなるまで寄合が開催された様子はありません。寄合を必要とする事態が起こらないくらいに幕政は安定していたからと考えられています。

寄合政治が本格化してくるのは、息子の時宗の時代からです。

 

時宗の執権就任~将軍宗尊親王の追放&二月騒動、寄合政治の本格化
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参考文献

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