【鎌倉幕府の成立】清和源氏・源頼朝と東国武士の関係

源頼朝
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河内源氏と関東

清和天皇の皇子である経基王が臣籍降下して、源姓を賜ったことに始まる源氏を清和源氏とよびます。経基王は、源経基と名乗ります。

清和源氏と呼ばれる子孫は、その根拠地から河内源氏・大和源氏・摂津源氏と呼ばれるようになります。

河内国(大阪府南部)に基盤を置いた源氏のことを河内源氏とよびますが、この河内源氏こそが源頼朝や足利尊氏を輩出する源氏なのです。

河内源氏系図

河内源氏と関東との結びつきは、11世紀初めの頃と言われています。

源頼信が常陸介として関東に下向した際、房総の豪族平忠常との間に主従関係を結んだことに始まるといわれています。

この忠常は、1028年(長元元年)に平将門以来とも言われる大反乱を起こして朝廷軍を大いに苦しめます。1031年(長元四年)、主人たる源頼信が追討使として下向してくると降伏しました。鎌倉幕府草創期の有力御家人千葉氏・上総氏は忠常の子孫です。

また、「前九年の役(1051~1062)」に際しては、源頼信の子頼義が多くの関東武士を率い、「後三年の役(1083~1087)」に際しては、義家が同じように関東武士を率いて奥州に向かっています。

その後、義家の孫で頼朝の父にあたる義朝は、12世紀中ごろ鎌倉に居館を構え、南関東の武士団を結集して保元の乱(1056)で、勝利をおさめる原動力になりました。

河内源氏と関東武士団との結びつきは、11世紀初頭からの長い歴史がありました。この約150年におよぶ関係が、1180年(治承四年)の頼朝挙兵に大きな役割を果たすことになります。

頼朝挙兵と関東武士

頼朝の伊豆配流から挙兵まで、河内源氏の多くの旧家人がいろいろな形で連絡を取り合い、頼朝を好意的に保護していきます。

たとえば、箱根神社別当の行実は為義・義朝の保護を受けた関係から、流人頼朝に対して祈祷を行い、石橋山の戦いの敗戦後、頼朝や妻の政子らをかくまっています。

また、頼朝の乳母である比企尼は所領の武蔵国比企郡から日々の生活に必要な品々を送り、娘婿の安達盛長を頼朝に仕官させました。さらに、蜂起後の頼朝は、譜代の家臣ともいえる郎党の相模国三浦氏を頼って行動しています。

しかし、すべての旧家人が頼朝のもとに集まったわけではありません。頼朝が石橋山の戦いで敗れて箱根に逃れることになったのも、相模国の大庭氏を筆頭とする武士たちが、平家の命令によって頼朝を攻撃したからでした。

頼朝が挙兵したとき、源氏と関東武士団の関係は、義家や義朝時代と比較すると弱くなっていたのも事実です。しかし、これは源氏が平家に敗れたことによってもたらされたもので、根本から関係が弱くなったわけではありません。

房総半島に逃れた頼朝は、上総広常や千葉忠胤らを従え、さらに武蔵国を経て鎌倉に入る頃には頼朝挙兵時に敵に回ったていた畠山重忠・河越重頼ら有力武士団の多くを従えました。

頼朝に討たれた武士は、伊東祐親・山木兼隆・荻野俊重・河村義秀・波多野義常・伊北常仲・佐竹秀義と数えるくらいで、関東の多くの武士団は頼朝に従いました。

頼朝が平家を打倒できたのは、このように源氏と関東武士団との約150年にわたる主従関係が存在したからでした。

頼朝と関東武士の主従関係

約150年におよぶ源氏と東国武士の主従関係が存在したからといっても、江戸時代の武士にみられるような忠誠心などといった情緒的なものではありません。赤穂浪士たちに代表される武士道の主従関係ではないのです。

それでは、彼らはどういう理由で頼朝に従ったのでしょうか?

それは、中央(朝廷や平家)に対して、頼朝が自分たちを保護することを期待したからなのです。

彼らが期待するのは、先祖伝来の所領に対する支配権が保証され(本領安堵)、戦功に応じて新しく所領を恩賞として与えられること(新恩給与)です。

本領安堵と新恩給与は御恩と呼ばれますが、頼朝がこれに応えられなければ、関東武士は頼朝との関係を平気で解消するくらいドライな関係でした。

1180年(治承四年)の冨士川の戦いのあと、頼朝は相模国府で大規模な論功行賞を行い、北条時政や千葉常胤ら多くの武士に対し、本領安堵と新恩給与を行いました。

頼朝は、関東の武士たちの「期待」に見事に応えたのです。頼朝は関東武士が何を望んでいるのかよくわかっていたのした。

以後、頼朝は関東武士たちに国府の役人や郡司・郷司、さらには荘園の荘司・地頭などに任命し、彼らの要望に応えていきます。

しかし、その反面、頼朝は関東武士らに忠節と義務を厳しく要求します。それは、具体的に頼朝軍に加わり、平家をはじめとする反頼朝軍と戦うことであり、さらに侍所に出仕して頼朝の警備にあたり、鎌倉の街づくりに参画することでした。

頼朝は、関東武士に御恩をほどこすかわりに、様々な義務を厳しく要求しました。
御恩と奉公に関してもっと詳しく解説した記事はこちら。御家人になるのが意外と難しいことも紹介しています。

頼朝と関東以外の武士の主従関係

関東では、河内源氏と関東武士団の約150年にわたる関係を基盤として、源頼朝と関東武士は関係を築いていきます。しかし、源平合戦といわれる治承寿永の乱の時期、頼朝の勢力圏が拡大されるにつれて、関東以外の武士が新たに頼朝の家人として組み込まれていきます。

しかし、この関東以外の武士と頼朝の関係は、源氏と関東武士団との長年にわたる主従関係の上に成り立つようなものではありません。

関東以外の武士と頼朝の主従関係は、朝廷の統治機構(国司の役所である国衙)などを通じて機械的に成立したものとなっていました。

つまり関東以外では、中央(朝廷や平家)から自分たちを保護する統治者源頼朝ではなく、朝廷や平家にかわって新たに統治者となった源頼朝なのです。

関東と関東以外では、源頼朝と武士の主従関係の性質は全く異なります。

全国に通用する主従関係づくりへ

関東以外の主従関係は、関東の主従関係と大幅に性質が異なりますので、治承寿永の乱(源平合戦)が終われば、特に関東以外の家人化した武士のなかには、頼朝との関係を精算して非家人化する者が現れることも考えられます。

頼朝としては、朝廷の統治機構で機械的に結ばれた主従関係を脱して、より強い主従関係を制度的に確立する政策を推し進めていく必要が出てきたのでした。

勢力圏を拡大するなかで増加した家人こそ、頼朝の軍事的基盤であり、東国の反乱政権である頼朝の権力基盤です。

そして、頼朝が権力を行使するためには、行政事務を担当する者がなくてはなりません。ところが、軍事的基盤となった当時の武士たちは行政事務は苦手でした。

したがって、行政事務関係を得意とする文士(官僚)を京都から鎌倉に呼び寄せます。

彼らの多くは京都の下級貴族でしたが、朝廷の統治機構とは異なる武家独自の統治機構を作っていきます。そして、この統治機構こそが鎌倉幕府であり、性格を変えながらも室町幕府へと引き継がれていきます。

 

 

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