梶原景時は本当に悪人だったのか?景時追放の裏に将軍擁立争い?

北条時政の時代
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源義経を讒言(ざんげん)で追い落とした張本人として悪者として有名な梶原景時(1140?~1200)。

義経だけでなく、忠臣として知られる畠山義忠をはじめ大小さまざまな御家人たちが景時の讒言で痛い目にあっています。

鎌倉方では評価の低い御家人ですが、梶原景時は素晴らしい!という賛辞の記録が京都側では残されており、当時から評価のわかれる武士だったようです。

梶原景時という人物を見てみますと、優秀な武将であったことは間違いなく、鎌倉幕府の権力抗争の敗者になったがゆえにさらに悪者として語り継がれている部分もあると考えられます。

また、北条氏が幕府内で権力を獲得するために最初に討たれた御家人と言われています。ただし、確たる証拠は残されていません。状況証拠からその説が濃厚となっているわけです。

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梶原氏

梶原氏は相模国鎌倉郡梶原庄を本拠地とする武士でした。現在の鎌倉市梶原付近です。

梶原氏は、大庭氏や長尾氏と同じ鎌倉氏族とされています。

河内源氏(清和源氏)との関係は深く、「後三年の役」で源義家に従った「相模の国の住人鎌倉の権五郎景正」は景時の先祖と考えられています。

梶原氏系図

鎌倉景正は長治年間(1104~1106)、高座郡鵠沼郷(神奈川県藤沢市)の開発を行い、1117年(永久五年)に伊勢神宮に寄進しています。

鵠沼郷は大庭御厨(おおばみくりや)と呼ばれる伊勢神宮の荘園として立荘されたのでした。そして、景正の子孫が現地荘官たる下司職として相続したので大庭氏を名乗るようになります。この大庭御厨の東側に梶原郷は位置していました。

頼朝の窮地を救った景時

1180年(治承四年)8月17日、源頼朝は伊豆国の目代(国司の代官)だった山木兼隆を急襲すると、相模国の豪族三浦氏と合流するために石橋山に陣を構えました。しかし、相模国の大庭景親を中心とする三千騎が頼朝の行く手をはばみます。

同月23日、景親の攻撃を受けて敗れた頼朝は「杉山」に逃れ、翌日にはさらに追撃を受けて後方の山中へと逃れます。頼朝とともに敗れた北条時政の嫡男宗時は、伊東祐親の軍に包囲されて討死。伊豆国の有力豪族工藤茂光は進退きわまり自害。

また、北条時政・義時父子は箱根の湯坂路を超えて甲斐国に逃れ、土肥実平・安達盛長らわずかの従者とともに山中に隠れた頼朝も、非常に危険な状況に陥ります。

梶原景時は、この合戦で平家方として参加しました。しかし、景時は頼朝が潜んでいるのを知りながら、景親勢を他の山中に導き、頼朝を助けようとしたと伝えられます。

『源平盛衰記』では、大杉の根元の洞窟の中に隠れている頼朝を知りながら、景時が助けたことになっています。この石橋山の戦いが頼朝と景親を結びつけたのでした。

源頼朝は、房総半島に逃がれて軍勢を立て直し、三浦・上総・千葉・畠山・河越・江戸といった有力豪族を従えて鎌倉にはいります。1180年(治承四年)10月、富士川の戦いで平維盛率いる平家軍を撃破し、捕らえられた大庭景親は処刑されます。

頼朝の信頼を得た景時

1180年(治承四年)12月、梶原景時は土肥実平を通して源頼朝に降伏し、翌1181年(養和元年)1月11日に頼朝と対面し御家人の列に加わりました。

「文筆に携わらずといえども、言語を巧みにする武士」であったため、頼朝の意にかなったと『吾妻鏡』に記されています。彼は、武一辺倒な関東武士たちのなかにあって異彩を放つ存在だったようです。

頼朝の信頼はたいそう厚く、鶴岡八幡宮の造営奉行、北条政子出産奉行、治承・寿永の乱(源平合戦)における源義経・範頼の軍奉行に選ばれてその役目に励んでいます。

1184年(元暦元年)1月に木曽義仲が滅んだあと、源義経・範頼、安田義定らが使者を鎌倉に派遣し、その戦況を頼朝に報告しました。

ところが、その使者は単なる戦果だけを報告したようで、頼朝が戦いの詳細を問いただしても、誰ひとりとして答えることができませんでした。

その直後、景時の使者が鎌倉に到着。合戦の状況をくわしく記した報告書を持参していたため、頼朝はたいそう喜んだと言われています。

この後も、景時は頼朝に戦況を報告しますが、御家人の功績のみならず失敗も記すほど詳しく報告するので、他の御家人からうとまれることになります。

文武に優れた景時

景時は和歌の才能もありました。頼朝が上洛するとき、遠江国橋本宿(静岡県浜松市)に到着した時のこと。多くの遊女が頼朝の周辺に集まってきたので、頼朝は、

はしもとの君になにをかわたすべき

と上の句を詠んだところ、即座に景時が、

ただそま山のくれであらばや

と下の句を詠みたしました。『増鏡』(14世紀後半に書かれた歴史物語)の作者は、この二人の関係をみて、なんと分け隔てのない主従であろうか、と評しています。

景時は「文」に優れた官僚的な要素を多くもった武士だったと考えられていますが、東国武士の一人として「武」にも優れていました。

1183年(寿永二年)12月、謀反の疑いがあるとして、上総国の有力豪族上総広常が暗殺される事件がおこりました。この広常暗殺について『愚管抄』(鎌倉初期の歴史書)は、

景時は広常と双六を打っていたが、頃合いを見計らって広常を切り殺した。これは景時の功名である。

と記しています。

このように景時は文武両道に優れた武士だったようで、慈円(関白九条兼実の弟で天台座主)は『愚管抄』で、梶原景時を「一ノ郎等」「鎌倉ノ本躰ノ武士」と記しています。

当時、東国武士のことを、東夷(あずまえびす)とののしっていた京都の上流階級の中で、梶原景時の評価は非常に高かったのです。

出世する景時

1180年(治承四年)11月、頼朝は侍所(軍事・警察を担う役所)を設置し、その別当(長官)には和田義盛が補任されていました。

『吾妻鏡』によると、1192年(建久三年)、景時は嘘をついて義盛から別当職を借りながらこれを返さず、ついに景時が侍所の別当、義盛が所司(次官)ということになってしまったそうです。

もちろん、侍所という幕府の要職を当事者間で貸し借りできるはずがないので、頼朝が義盛よりも景時が適任と判断したためと考えられています。

いずれにしても、別当の座を景時に奪われた和田義盛は相当恨んだらしく、のちの梶原景時弾劾の際は率先して行動しています。

景時の能力を重く見た頼朝は、1184年(元暦元年)2月18日に土肥実平と共に播磨・美作・備前・備中・備後5カ国の守護に任命しました。

景時の守護国は、播磨・美作の2カ国と言われています。景時の弟朝景も1185年(文治元年)に土佐の守護に任ぜられていることから、景時のみならず梶原一族が頼朝に重用されていたようです。

そして頼朝は、景時を嫡男頼家の後見に選びます

『愚管抄』には、景時が「メノト」=傅(幼主の守役)に選ばれたと記されていることから、比企氏と同様に、頼朝が頼家の後見として梶原氏も起用したことがわかります。

頼家には、比企尼の娘で河越重頼の妻が乳母となっていて、その後、源家一門の平賀義信の妻でやはり比企尼の娘が乳母となっています。その上に、比企能員の娘が頼家に嫁いだことから、比企一族が頼家の後見的立場に選ばれていました。

 

 

景時弾劾

1199年(正治元年)1月13日、源頼朝が死去します。

そして、同年10月25日、鎌倉御所内でのこと。

下野国の有力御家人である結城朝光が頼朝をしのんで、

「『忠臣は二君に仕えず』とよく聞く言葉だが、頼朝様から恩恵を蒙ったものなら、なおさらそう思うのではないか?頼朝様死後、出家すべきだったが、しなかったことに後悔している。今の世情を見ると薄氷を踏む思いがしてならない」と他の御家人に語り、それを聞いた御家人も大いに涙したそうです。

朝光の発言を聞いた梶原景時は、10月26日に新将軍頼家に対して結城朝光は謀反をたくらんでいるという讒言を行います。

10月27日、景時の讒言を聞いていた御所の女房「阿波局」は、結城朝光に「一昨日の結城殿の発言を梶原殿が聞きつけ、結城殿が謀反を企てていると頼家様に讒言しました。このままでは結城殿は討たれますぞ(意訳)」と伝えます。

結城朝光は、あわてて幕府有力御家人で親友の三浦義村に相談したところ、和田義盛と安達景盛、中原仲業を呼んで対応策を協議することになりました。

そして、同士をつのって景時弾劾連署状をつくり頼家に申し入れを行うことを決定。公事奉行人の中原仲業は以前から景時を恨んでいたので、仲業が景時糾弾の趣意書を書くことになりました。

10月28日、午前10時ごろには早くも千葉常胤・三浦義澄・畠山重忠・小山朝政・和田義盛など66人の御家人が鶴岡八幡宮の廻廊に集まります。

景時弾劾の「一味同心」の誓いをたてていると、中原仲業が景時弾劾状を持参します。全員の前でこれを読み上げたところ、「ニワトリを養う者は狸を飼わず、獣を牧する者はヤマイヌを育てず」と書いてあったので、義村は大変感心したといいます。

その後、全員の署判を加えて、和田義盛と三浦義村が大江広元に手渡し、頼家に取り次いでもらうように頼みます。

ところが、10日たっても全く音沙汰がありません。そこで、和田義盛が大江広元に面会したところ、広元はまだ取り次いでいないと返事します。広元は丸くおさめようとしたのでしょう。

義盛は広元に詰め寄り、「貴殿は関東の耳目として関東で長年を過ごしてきた。景時一人を怖れて、われわれ多くの御家人をほおっておくつもりなのか」と強談判におよびます。

広元はその激しい態度におされたものの、「景時を怖れているのではない。景時のもつ能力を失うことを惜しんでいる」と答えます。

義盛は、「鎌倉殿に申し上げるつもりがあるのかどうか、今はっきりご回答承りたい」と詰め寄ると、広元もついに頼家に取り次ぐことを承諾せざるを得なくなりました。

11月12日、広元が景時弾劾状を頼家に取り次いだところ、頼家は即座に景時に弁明を求めます。ところが、景時は翌日になっても一言の陳述もせず、ついには一族をつれて相模国一宮の所領に引き上げてしまいました。

当時の裁判は当事者主義なので、陳述できなかった者が敗訴となります。したがって、一言も陳述しなかった景時は罪を認めたことになったのです。

12月9日、景時はいったん鎌倉に戻りますが、18日は景時の敗訴が確定。景時には鎌倉追放が申し渡され、屋敷も取り壊されて永福寺に寄付されることになりました。

さらに、景時がもつ播磨守護職も取り上げられ、小山朝政が新しく播磨守護職に補任されます。

景時は頼朝に対して、職務に対して忠実でした。御家人たちに慕われた頼朝も、晩年は独裁者と化して御家人との間に隙間風が吹いていました。ですから、頼朝の「独裁政治」を支える重要な役割を果てせば果たすほど、他の御家人との間に軋轢が生じたともいえます。

 

景時の死

景時は、相模国一宮に城郭を構えてしばらく引きこもっていましたが、1200年(正治二年)1月19日、朝廷から九州諸国の総大将に任命されたと称して、一族を引き連れ京都へ出発しました。

同1月20日、景時の出発を聞いた北条時政・大江広元・三善善信らは翌日御所に集まり景時追討を決定。

三浦義村・比企兵衛尉らが追撃のために派遣されます。しかし、景時一行は上洛の途中、駿河国清見関(静岡市清水区)近くで周辺武士に発見され、激しい合戦の末、一族もろともあえない最期を遂げたのでした。

『愚管抄』には、

鎌倉幕府の第一の郎等と思われた景時はやがて傅に選ばれ、大変専横的になり、他の御家人たちを軽んずるところがあった。そのため、他の御家人に訴えられ、しかも景時を討とうとしたので、国を出て上洛する途中、ついに討たれてしまった。

と記されています。

景時の死後

景時滅亡後、景時父子の所領は没収、さらに景時の朋友加藤景廉も所領を没収され、同じく朋友安房判官代隆重が捕縛されました。

また、甲斐国では武田有義が弟伊沢信光の攻撃を受けて逃亡、行方不明となりました。武田有義は景時に同調して上洛し、将軍に就任するという計画が練られていたと『吾妻鏡』には記されています。

1200年(正治二年)2月5日、和田義盛が侍所の別当に再任されます。その間にも景時に味方した勝木則宗や芝原長保の捕縛が続きました。

 

景時失脚の裏に北条時政??

この事件は、景時の讒言から始まったとされています。しかし、単なる景時「粛清」という性格の事件ではありません

景時が頼家の傅という立場を背景に、幕府内で相当の権勢を有したことから、多くの御家人が新将軍頼家と景時に反発したというのが事件の真相のようです。頼家もまた、すでに御家人から見放されていました。

 

 

関白九条兼実の日記『玉葉』には、一部の武士が頼家の弟千幡(実朝)を主君として仰ぎ、頼家を亡きものにしようと訴えたと記されています。

さて、結城朝光に梶原景時の讒訴を密告し、景時の失脚の発端をつくった御所の女房「阿波局」。

実は、北条時政の娘で、北条政子の妹でもあります。また、源実朝の乳母でもあり、後に頼家に滅ぼされる阿野全成の妻でもあります。

 

 

また、梶原一族が討たれた駿河国の守護として国内の治安警察権を握っていたのは北条時政です。

阿波局、景時が討たれた状況を見ると、北条時政が裏で糸を引いていてもおかしくありません。

北条時政は、頼家と実朝の外祖父にあたります。しかし、頼家は頼朝によって比企氏と梶原氏に擁されるようになっており、時政の出る出番はありませんでした。

一方、実朝の場合、時政は外祖父であると同時に、娘阿波局が乳母をつとめていることから、北条氏が影響力を行使することが可能だったのです。北条氏が頼家を廃して、実朝の擁立を画策してもおかしくはありません。

1200年(正治二年)4月1日、北条時政は従五位下遠江守に叙されます。頼朝生存中、頼朝の知行国の国司に任命されたものはすべて源家一門でした。

ですから、時政が国司に補任されたことは、北条氏が源家一門に準ずる家柄になったことを意味しています。しかも、当時五位以上が政所別当の有資格者だったことを考えると、従五位下に叙されたことの意味も大きいのです。

時政にとって、源氏将軍家との婚姻関係だけが幕府内での財産でしたが、この叙位と国司任官によって、時政の幕府内での立場が上昇します。十三人の合議制を構成する宿老格の御家人の中でも、時政が一歩リードすることになったのです。

参考文献

細川重男『北条氏と鎌倉幕府』講談社。

岡田清一『北条得宗家の興亡』新人物往来社。

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