比企氏が勢力を拡大した理由と「比企能員の乱」をわかりやすく

北条時政の時代
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鎌倉幕府ナンバー2にして、実質ナンバー1な北条氏。

北条氏は次々とライバル御家人を滅ぼし、幕府内での位置を高めていくわけですが、本格的に滅ぼした最初の氏族は比企氏と言われています。

今日は、その比企氏との争いについて考えてみましょう。

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頼朝の乳母・比企尼

名家に生まれると、その嫡子の多くは乳母や傅役(幼主の世話役)によって育てられます。

乳母は、字の如く生んだ母に変わって乳をあげることですが、生母にかわってその子供を教育する重要な役割があります。ですから、実母と同じように重視されていました。

源頼朝は生まれた当時は嫡男ではありませんが、乳母に育てられました。源氏の棟梁源義朝の息子ですから当然でしょう。

そんな頼朝の乳母は比企尼(ひきのあま)と言われて、頼朝が京の都に生まれたときから乳母としてお側に仕えしました。

1160年(永暦元年)、平治の乱で敗れた源頼朝が伊豆国に配流されたとき、比企尼は武蔵国比企郡(埼玉県比企郡)を「請所」として、夫の比企遠宗とともに関東に下向しています。そして、頼朝が平家打倒で挙兵する1180年(治承四年)までの20年間にわたって物心両面で頼朝を支えました。

比企氏と河内源氏

その比企氏は、武蔵国比企郡(埼玉県比企郡)を支配して、その地名から比企氏を名乗ったと考えられていますが、詳しいいきさつはわかっていないようです。

比企氏と河内源氏(清和源氏)の関係ですが、比企氏は源義朝の弟で源義賢(源頼朝の叔父、木曽義仲の父)の支配下にあったと考えられています。

義賢は武蔵国留守所の惣検校職(そうけんぎょうしき)に任命されていた秩父重隆の支援を受け、上野国から武蔵国に勢力を拡大していました。当然、比企氏もその勢力下に入っていたと考えられています。

同じ頃、頼朝の父義朝は相模国の支配を強化し、武蔵国に勢力の拡大をはかっていました。

上野国から南下する義賢と、相模国から北上する義朝は、武蔵国大蔵(東京都世田谷区?)で衝突し、義賢は義朝の次男義平と戦い敗れて戦死します。結果、源義朝が勝利し、武蔵国の武士たちは義朝の支配下に組み込まれていきました。

保元の乱(1156)で、源義朝が大兵力を動員できたのは、この大蔵の戦いの勝利で相模国、武蔵国の武士を支配下に置いたからでした。

比企氏と源氏将軍家

さて話は戻って、比企尼には3人の娘がいました。長女は丹後内侍(たんごのないし)といい、二条天皇に使えていましたが、惟宗広信(これむねひろのぶ)に嫁ぎ、島津忠久・若狭忠季の2人をもうけます。この島津忠久は、その後の戦国大名・薩摩藩でその名を天下にとどろかせる島津氏の祖です。

丹後内侍は、惟宗広信死去の後に安達盛長と再婚し、その娘は源範頼に嫁いでいます。

次女は、河越重頼に嫁ぎ、その娘は源義経に嫁ぎました。

三女は、源氏一族の平賀義信に嫁ぎ、義信は1184年(元暦元年)に武蔵守に任命されています。

比企氏は、武蔵国留守所惣検校(るすどころそうけんぎょう)平賀氏を通して武蔵国で勢力を拡大する基盤を築いたのでした。

このように、3人の娘はそれぞれ名家に嫁ぐ一方で、比企尼には男子に恵まれませんでした。そこで、甥の能員(よしかず)を養子にし、比企氏の当主とします。

比企氏系図

比企尼は、鎌倉の比企谷に屋敷を構えており、北条政子はこの屋敷で源頼家を産みます。

比企尼の次女(河越重頼の妻)・三女(平賀義信の妻)は、頼家の乳母となり、比企能員の妻も頼家の乳母に選ばれました。

さらに、比企能員の娘の若狭局は源頼家に嫁ぎ、一幡・竹御所の2人を生んでいます。

このように比企氏は、源頼朝・頼家の乳母・乳母父、頼家の外戚という関係によって源氏将軍と何重にも結びついており、そういう意味では幕府内で最強の氏族になっていたと言えるかもしれません。

比企氏の勢力

比企氏は、源氏将軍家との結びつきをもって幕府内での勢力を拡大していったと考えられますが、比企氏の所領はどうなっていたのか見てみましょう。

比企氏が直接支配する所領は武蔵国比企郡くらいで、源氏将軍家との結びつきのわりには、広大な領地をもっていたわけではないようです。

一方で、比企氏は信濃国目代(国司の代理)・守護職、上野国守護(安達盛長が守護との説も)、北陸道勧農使に任ぜられています。

北陸道とは若狭国・越前国・越中国・越後国で、勧農使とはもともと農業を勧める使者、農業経営を円滑に行えるように援助する使者という意味ですが、のちに年貢の徴収・土地の処分などの権限も行使するようになりました。実質の守護職です。

比企氏の所領比企郡は別として、信濃国・上野国・北陸道諸国は木曽義仲の勢力圏だったところです。この義仲の旧所領の支配に比企氏を当たらせたのは、頼朝の比企氏への信頼のあらわれと言えるでしょう。

比企氏滅亡

源氏将軍との外戚関係によってその勢力を拡大した比企氏ですが、頼家が突然病に倒れると、その立場は急速に弱くなります。

1203年(建仁三年)7月20日、将軍頼家は突然発病し、回復に向かうどころか日に日に心身ともに衰弱していく一方でした。その状態は8月になっても回復する兆しがなかったようで、幕府の重要儀式であった鶴岡八幡宮の放生会も将軍欠席で催される状態でした。

この頃の幕府は、13人の合議制を敷いていましたが、幕府宿老たちは頼家に相談することなく、次の体制への移行措置に移ります。

 

 

同月27日、突如、頼家の家督譲与が発表されます。

頼家の権限を二分し、頼家の嫡子一幡に全国惣守護職と関東二十八国の地頭職、弟の実朝に西国三十八国の地頭職をそれぞれ相続させるという内容でした。本来であれば、嫡子一幡に頼家の機能全てが譲与されるはずですが、二分されたのです。

この家督譲与については頼家にはまったく知らされておらず、頼家の外戚比企氏にも知らされていませんでした。

明らかに、比企氏に対する実朝派=北条氏の挑発でした。もちろん、まだこの頃は北条氏は単独で行動できるほど力を持っていません。他の御家人を味方につけていたことは間違いないでしょう。

頼家の家督譲与とその内容を聞いた比企能員は、9月2日朝に娘の若狭局を介して病床の頼家に北条時政追討を訴えます。この仕置きを初めて聞いた頼家は憤慨し、病床に能員を招き談合の上、北条時政追討を決定しました。

ところが、たまたま障子の向こうにいた北条政子がこの決定を聞いていたのです。北条政子によって、頼家と比企能員の計画が北条時政に知らされてしまいます

時政は仏事のために鎌倉名越の屋敷に戻る途中でしたが、政子からの連絡を受けたあと、政所別当大江広元の屋敷に向かいます。

時政は、「近年、能員は威を振い、諸人をないがしろにしていることは、すでに誰もが知っている。しかも、将軍頼家が病床であることを幸いに、将軍の命令と称して反逆を企てているという連絡が入った。先手をうって討伐すべきであろうが、どうであろうか」と、広元に尋ねました。

広元は、「頼朝以来、政務を補佐することはあったが、兵法については返答することはできない。よく考えるべきではないか」と答えています。

時政は、広元の「よろしく賢慮有るべし」の返答を都合よく解釈したらしく、ただちに天野遠景・仁田忠常に比企能員追討の命令を下します。

このように、1199年(正治元年)の梶原景時弾劾、今回の比企能員追討においても、大江広元は御家人たちに判断を求められています。なぜ、広元は判断を求められるのでしょうか。

 

 

それは、政所別当は幕府の政治を司る機関の長官ですから、そこから正式に賛同を得るということは、私的な戦を公的な戦へと転換することを意味していたのです。

確かに北条氏は、頼朝の妻の実家で、頼家の外戚という立場にあります。そして、源家に準ずる家柄として遠江守に任ぜられており、一般御家人よりも高い家柄となっていました。

しかし、家柄と幕府内の中枢を占めることは別のことで、北条氏はそのことをよく理解しており、比企氏は理解していなかったと言えます。

1203年(建仁三年)9月2日昼頃、時政は比企能員に対し「自分の屋敷で薬師如来の供養会をおこなうので参列して欲しい。そのついでに色々相談したいことがあるので早めに来てほしい」と言う旨を使者に伝えさせています。

9月2日朝に北条時政追討命令が下されたばかりですが、昼頃には時政が逆に能員を討伐する手はずを整えています。以前から用意周到に比企氏討伐の計画が練られていたと言われる所以はここにあります。

能員は、この時政の計画に気がつきませんでした。能員の息子たち・郎等が時政邸におもむくことを諌めています。しかし、「行かなければかえって疑われる」と、能員は反対を押し切ったばかりか、水干(すいかん)・葛袴(ふじはかま)という軽装で、郎等2人、雑色5人という少人数で時政邸の門をくぐります。

そして、邸内に入ったところで、突然、天野遠景・仁田忠常が能員の前方に立ちふさがり、能員の両手を取って引き伏せ、殺害におよびます。

能員が殺されたという報は、雑色によって比企一族に伝えられます。そして、比企一族は親族郎党を集め、一幡の小御所に立てこもりました。

時政の命を受けた追討軍の動きは迅速で、午後3時には小御所に押し寄せ戦闘が始まります。

比企氏は劣勢でしたが、午後4時頃にはいったん追討軍が引き退くこともあったそうです。

しかし、多勢に無勢。ついに、小御所に火が放たれ、比企一族は一幡のまえで自害。一幡も同じ運命をたどります。翌日、一幡の遺骨は大輔房源性によって集められ、高野山奥の院に納められました。

比企与党の処分と頼家幽閉

9月3日・4日に、比企氏に組した者は流罪あるいは監禁、所領没収されます。

頼家が一幡・比企一族の死を知ったのは5日後のことと伝えられています。全てのことが片付いてから頼家に伝えられたことから、将軍頼家に対して幕府宿老の心が離れていたことをうかがい知ることができます。

頼家は、和田義盛・仁田忠常に時政追討を命じました。和田義盛は侍所別当(幕府の警察・軍事を司る長官)でしたが、これを時政に報告してしまいます。仁田忠常は時政追討をためらっているうちに北条時政に謀殺されてしまいました。

仁田忠常は、比企氏と共に滅んだ一幡の乳母父で、一幡を殺された恨みを抱き北条時政に刃向かう可能性があったので、滅ぼされたといわれています。

しかし、仁田忠常は比企能員を殺害した張本人でもあるので、比企氏を滅ぼして一幡の外戚として力を握ろうと考えていた可能性はあります。一幡が死ぬというのは誤算だったのでしょう。真相はわかりません。

9月7日、頼家は出家し、29日に伊豆国の修善寺に幽閉されました。

比企氏の権力基盤は、婚姻や乳母の関係によって結ばれた将軍頼家の存在と、数少ない所領だけでした。ですから、権力基盤の大部分を占める頼家が倒れると、比企氏の存在自体が不安定になるのでした。

 

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政所別当北条時政

比企氏の所領と広大な守護国は、北条氏の支配下に置かれました。

また、島津氏の祖の島津忠久は、比企能員の姻族という理由で、連座で失脚(連帯責任)しました。

島津忠久は薩摩・大隅・日向守護を解任され、北条氏が薩摩・大隅の守護に任ぜられています。

頼家の出家と同日、実朝に征夷大将軍の宣旨がくだります。9月10日には政子のもとから時政邸に移っています。

時政は、政所別当に就任すると同時に、多くの御家人に所領安堵状を下し、名実ともに幕府最高権力者になりました。

これまでの幕府の公式文書は、政所の職員が連署した「政所下文」の形式をとっていました。時政が政所別当に就任して以降、時政の単独署名による「関東下知状」という新しい文書形式によって、諸政務が執行されていきます。

10月8日、時政邸において元服した実朝の政所始めの儀式が11月9日に行われました。

幼い新将軍実朝の外戚として、後見人として、政所別当として、時政は他の御家人を圧倒する優位性を獲得したのです。

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