鎌倉幕府6代将軍・宗尊親王の生涯

鎌倉時代
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かつて、3代将軍源実朝が暗殺された後、幕府は後任の将軍に後鳥羽上皇の皇子の関東下向を要請しました。

このことは、実朝が生前のとき、後鳥羽上皇の乳母で院の実力者藤原兼子と北条政子の間で決められていたことだったのですが、後鳥羽上皇は皇子の鎌倉下向の約束を認めず、幕府は源頼朝の遠縁で摂関家出身の九条頼経を将軍として迎え入れることになりました。

この4代将軍九条頼経とその子5代将軍九条頼嗣はその後、北条得宗家に反抗的な名越流北条氏らの「反執権勢力」に担がれることになったことから、相次いで京都に送り返されることになります。

 

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頼嗣は鎌倉生まれ、鎌倉育ちですので、京都に追放といった方が正しいのかもしれません。首都京都に追放というのは訳がわかりませんが…

 

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4代・5代の摂家将軍が京都に追放されたのち、鎌倉に下向してきたのは、かつて北条政子が願って果たせずにいた親王将軍でした。彼の名は宗尊親王。鎌倉でどのような人生を送ったのでしょうか?

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誕生から将軍宣下まで

1242年(仁治三年)11月22日、宗尊親王は後嵯峨天皇と平棟基の娘棟子との間に生まれました。宗尊親王は、持明院統の後深草天皇と大覚寺統の亀山天皇の兄にあたります。母棟子の身分が低かったことから、天皇になる道は最初から閉ざされていました。最初から天皇になる予定がなかったため、鎌倉に将軍として下向するまでは広大な荘園群の継承予定者でした。

 

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1244年(寛元二年)1月28日に親王宣下を受けて、中書王から宗尊親王となります。

1252年(建長四年)2月に5代将軍頼嗣を追放した幕府は、後継に後嵯峨上皇の皇子の下向を要請しました。後嵯峨上皇は、鎌倉幕府によって擁立された経緯がありましたので、幕府に好意的でした。ですから、後鳥羽上皇のように幕府の要請を拒否することはあり得ません。

 

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そして、第1皇子の宗尊親王が第6代将軍として選ばれたました。4月1日、征夷大将軍の宣下を受けます。

北条政子・義時以来の宿願だった皇族将軍を、ついに幕府は頂くことになったのでした。

 

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宗尊親王をはじめとする幕府滅亡までの4人の将軍は、皇子または皇孫だったことから、皇族将軍・親王将軍・宮将軍と呼ばれます。

鎌倉下向後

鎌倉下向後、宗尊親王はたびたび病を患い、8月6日には食事も摂れない状況になったといいます。10歳の皇子にとって、慣れない鎌倉での暮らしには相当のストレスがあったことでしょう。

宗尊親王に何かあれば、幕府としても後嵯峨上皇に面目が立ちません。執権北条時頼は評定を行って、鶴岡八幡宮別当隆弁に祈祷を命じています。この評定に加わっていた安達義景は別当隆弁に対して「宗尊親王の下向は御家人の願いであり、親王を迎えられたことは幕府の名誉」と語ったと言われています。

 

摂家将軍とは違う親王将軍

4代将軍頼経の場合、1219年(承久元年)7月に鎌倉に下向し、1226年(嘉禄二年)1月将軍宣下(9歳)、貞永元年(1232年)2月従三位(15歳)と成長を待ちながら任官していきました。

一方の宗尊親王の場合、下向直後の1252年(建長四年)4月5日(4月1日付で宗尊の鎌倉到着と同日)で将軍宣下を受けています。

11歳でありながら、三品親王(三位以上の親王)として政所開設の資格を有していた宗尊親王は、征夷大将軍として下向したことから、鎌倉幕府は即戦力としての将軍を必要としていたと考えられています。その証拠に、宗尊は政所始を皮切りに下向直後に「〇〇始」と呼ばれる一連の将軍儀礼を短期間で実施しました。

時は過ぎて1289年(正応二年)10月、7代将軍惟康親王に代わり8代将軍として京都より下向した久明親王も征夷大将軍として下向し、すぐに執権北条貞時邸への御幸始をはじめ、多くの「〇〇始」を行っています。

宗尊親王が下向した頃には、幕府の体制は確立し、将軍が関わる儀礼も滞りなく行われる必要があったため、即戦力としての将軍が求められていたと考えられています。

幕府の変化

皇族将軍の登場は、幕府に大きな変化をもたらしました。

1252年(建長四年)4月14日、初の宗尊の鶴岡八幡宮参詣が行われましたが、随兵として供奉していた金沢実時・佐原光盛は鎧を着用せずに、布衣で供奉しています。

頼嗣までは将軍としての威光を示すために、御出の供奉人は鎧武者でしたが、親王の御出にはその必要がなくなったようで、場合に応じて姿を選ぶようになったようです。わざわざ、威光を示すまでもなく、天皇の皇子ということで威光は十分だったのです。

また、これまで直接将軍が参宮して行われた鶴岡八幡宮の祭礼も奉幣使派遣へと変更されています。親王の行幸は簡単に行われないというのがその理由で、宗尊親王は従来の武家の棟梁(鎌倉殿)としての将軍というより、あくまで親王としての将軍として扱われるようになります。

宗尊親王の健康回復を祈祷した隆弁は、建長四年9月7日に宗尊に対する祈祷の恩賞として美濃国岩瀧郷が与えられ、権僧正に任じられました。これまでの歴代将軍は僧侶の官職推挙権は有していましたが、将軍に対する祈祷の賞として官職を与えることはありませんでした。

従来の幕府・将軍に対する仏事は、国家仏事(公請:くじょう)の対象外でした。そのため幕府に勤仕する僧が僧位・僧官を得るには、皇室・朝廷の仏事に参加するか、他人の賞を譲り受ける以外に手段がなかったのです。

しかし、親王将軍が誕生したことによって、幕府・将軍への仏事が国家仏事に準ずるものに高められました。単なる地方政権だった鎌倉幕府は、朝廷に準ずる政権としてようやく認められたのです。

親王将軍によって、幕府の権威は急激に高まりました。北条政子や義時が、実朝のあとに親王将軍をいただこうとしたのも、幕府の権威を朝廷並みに高めたいという意図があったことがよくわります。

依将軍仰

皇族将軍の誕生は幕府発給文書にもその変化をもたらしました。将軍の命令書の一つである下文は、将軍自ら花押を据える「御判下文」と政所職員が連名で署判する「将軍家政所下文」の二種類がありました。政所は親王三品以上・公卿などでないと設置資格はありません。律令で決まっているのです。

そのため、頼経・頼嗣父子は公卿になる前は「御判下文」を、公卿となって政所を開設した後は「政所下文」を用いました。

しかし、政所設置可能な地位で下向した宗尊親王(三品親王)は最初から政所下文を発給しました。つまり、宗尊以降の幕府の下文からは、将軍の花押(サイン)は消えたのです。

また、宗尊時代の政所下文は書止文言が「依鎌倉殿仰下知如件(鎌倉殿の仰せに依りて下知件の如し)」から「依将軍家仰下知如件(将軍家の仰せに依りて下知件の如し)」に変化したことはよく知られています。

これは、宗尊親王に求められた立場が征夷大将軍で、武士と私的な主従関係を結んだ武家の棟梁「鎌倉殿」ではなかったことを示していると言われています。

この「依将軍家仰」の文言は宗尊期以外は使用されていません。子の惟康王以降は元の「依鎌倉殿仰」が復活します。惟康以降の親王将軍は得宗北条家のロボット状態でしたが、御家人の主人である「鎌倉殿」の存在は鎌倉幕府にとって必要だったようです。特に惟康王の時は蒙古襲来を前にしていましたから、将軍よりも鎌倉殿と御家人の結びつきが重要になっていたのでした。

鎌倉殿の自覚を持っていた宗尊親王

宗尊親王は、和歌をはじめとする文化活動を活発におこなっていましたが、それは政治力に無力だったからと言われてきました。しかし、近年はその説は否定されてるようです。

たとえば、下向した1252年(建長四年)、病床の身の宗尊は鶴岡放生会の供奉人のリストを提出させ、合点を加え、自ら確認をしてます。この時の宗尊親王は10歳ですから、さすがに形式的なものだったにちがいありませんが、成長するに従い、宗尊は実際に供奉する御家人の選定を自ら行うようになります。

1219年(承久元年)小侍所の設置以降、出仕する御家人の人選は小侍所で行われていました。小侍所別当(長官)は歴代北条氏が独占していました。将軍近侍の人事権は北条氏が掌握していたのです。

宗尊親王時代の別当は北条一門金沢実時で、1260年(文応元年)2月には、執権時頼の子で後の執権時宗が実時とともに就任してます。宗尊親王の指令が実時・時宗との対立をまねく場合もあったようです。

 

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宗尊親王は将軍として供奉人選定に積極的に関与し、幕府儀礼を通して御家人との主従関係を育成しようとしていたと考えられています。

鎌倉追放

1264年(文永元年)、6代執権赤橋長時が没すると、執権には北条政村、連署には北条時宗が就任しました。時宗は14歳。宗尊親王は23歳。そして、宗尊親王は将軍としての自覚をもっていました。

1266年(文永三年)6月20日、宗尊親王の祈祷僧松殿僧正良基が将軍御所より突如蓄電する事件が起こります。同日、時宗邸では時宗・政村・金沢実時・安達泰盛による「深秘御沙汰」が行われました。23日、宗尊親王の正室近衛宰子と娘、後継者惟康王が将軍御所を出発。26日、近国の御家人が参集し、鎌倉は不穏な情勢となります。

有事に際しては、将軍は執権邸に移るか、将軍御所に人々が参集して将軍を守護するのが先例でしたが、今回はどちらも行われませんでした。将軍御所にはわずかに島津忠景等五名が残っただけでした。7月4日、宗尊親王は佐介流北条時盛邸に移され、そこから京都へ送還されてしまいます。7月20日に入洛。六波羅探題北条時茂(ときもち)邸にはいりました。この記事をもって鎌倉幕府の歴史を綴った『吾妻鏡』は終わります。

これらの新将軍擁立の動きは、6月20日に開かれた「寄合」で決定された処置だったと考えられています。

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22日、宗尊親王の皇子惟康王がわずか3歳で7代将軍に任官しました。宗尊親王は、「鎌倉の都合」で10歳にして鎌倉に下向し、「鎌倉の都合」で京都に追い返された悲運の親王といえます。

1272年(文永九年)2月、宗尊は出家。同年7月29日に死去。享年33歳。墓所の所在は不明です。

鎌倉殿

初代将軍源頼朝

2代将軍源頼家

3代将軍源実朝

尼将軍北条政子

4代将軍藤原頼経

5代将軍藤原頼嗣

参考文献

石井進『日本の歴史7~鎌倉幕府』中公文庫。

川合康『日本中世の歴史3~源平の内乱と公武政権』吉川弘文館。

岡田清一『北条得宗家の興亡』新人物往来社。

北条氏研究会編『北条氏系譜人名辞典』新人物往来社。

細川重男編『鎌倉将軍執権連署列伝』吉川弘文館。

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