源頼朝の生涯・平家打倒と鎌倉幕府創設、そして晩年の誤算

源頼朝
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当サイトは、執権北条氏と御家人足利氏の立場から鎌倉幕府に光を当て、鎌倉幕府が室町幕府にどのように引き継がれていったのかを考えてみようと企んでいるサイトです。実は、鎌倉幕府と室町幕府は別々のものではなくて、建武の新政を挟んで連続していると言われています。

今回は、その幕府という政治機構を日本史上初めて誕生させた源頼朝にスポットを当てて見ていきましょう。

【鎌倉幕府の成立】清和源氏・源頼朝と東国武士の関係
源頼朝が平家打倒の挙兵を起こせたのは、11世紀初から続く源氏と関東武士団の主従関係があったからでした。その主従関係は御恩と奉公として知られるドライな契約関係ですが、新しく頼朝の家人となった関東以外の武士たちはさらにドライな関係でした。頼朝は新しい統治機構を作る必要性に迫られます。
【鎌倉幕府の成立】源頼朝を補佐した文士官僚たち
源平合戦といわれる治承・寿永の乱になかで、源頼朝の勢力圏が拡大するなかで増加していった家人こそが、中央である京都への反乱政権である頼朝の軍事的基盤であり、権力基盤でもあったのです。頼朝がこの権力を行使するためには一般行政事務を担当する者が必...

 

 

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平家打倒の挙兵まで

源頼朝(1147~1199)は言うまでもなく鎌倉幕府初代将軍で、在職期間は1192(久安三年)~1199(正治元年)。父は源為義、母は熱田大宮司藤原季範の娘由良御前で、足利尊氏の先祖である足利義兼の従兄弟にあたります。

 

足利義兼・鎌倉幕府内で足利氏の基盤を作った人物
将来を期待されながらも、若くしてその一生を終えた足利氏祖の足利義康(1127~1157)。その義康のあとを継いだのは、熱田大宮司藤原季範の娘を母とする三男の義兼(よしかね)です。 義兼の母は、源義朝の妻...

 

1158年(保元三年)2月3日、皇后宮権少進補任。

1159年(平治元年)1月29日右近将監補任。2月13日、上西門院(統子内親王:鳥羽天皇の第二皇女)の院号宣下によって、皇后宮権少進を上西門院蔵人に改めます。6月28日、蔵人補任。

1159年(平治元年)12月9日、源義朝に従って平治の乱に参加します。12月14日、乱の最中に右兵衛補佐に補任されました。しかし、平治の乱で源氏方は大敗し、12月28日解官されます。

1160年(永暦元年)2月9日、頼朝は東国へ落ち延びる途中、父義朝ら一族郎党とはぐれて近江国で捕えられます。京都六波羅へ送られた頼朝には死罪が検討されますが、清盛の継母の池禅尼嘆願などにより助命されることになりました。この助命嘆願には後白河院、上西門院の意向が働いていたとの説もあります。なお、北条時政の後妻(義時・時房・政子らにとって義母)である牧の方は、池禅尼の姪と言われています。3月11日、伊豆国に配流となります。14歳のときでした。

伊豆国は1159年(平時元年)12月14日から、源頼政の知行国となっています。頼政は、平治の乱では平家方についたことから破格の待遇を受けます。後に、以仁王とともに平家打倒の挙兵をするも、宇治平等院の戦いで敗れ自害して果てます。

「吾妻鏡」は、流人時代の源頼朝の生活が父母の追善供養に明け暮れた静かなものであったと伝えています。頼朝の乳母比企尼は、頼朝の身の回りを世話するために、夫比企遠宗の領地武蔵国比企郡に京都から下向し、比企郡から仕送りするとともに、女婿の安達盛長を頼朝のそばに仕えさせています。

 

比企氏が勢力を拡大した理由と「比企能員の乱」をわかりやすく
北条氏は、鎌倉幕府内で勢力を拡大するために次々とライバルを滅ぼしていきます。最初に滅ぼされたのが比企氏。源氏将軍とのつながりは北条氏よりも強く、比企氏が北条氏に仕掛けたのか?それとも北条氏が仕掛けたのか? どっちでしょうか??

 

頼朝と比企氏・頼朝と安達氏の関係は流人時代に築かれたものです。頼朝の乳母には、比企尼以外に小山政光の妻(寒川尼)や三善康信の叔母などがいて、のちに彼らも頼朝の忠実な側近となっています。

頼朝挙兵から鎌倉入りまで

1180年(治承四年)5月の以仁王の挙兵によって、伊豆国の知行国主源頼政は嫡男仲綱とともに宇治平等院の戦いで敗死し、伊豆国は平時忠の知行国となります。平時忠は、文章道(歴史や漢詩文)を学んだ中原知親を目代として派遣します。平清盛は、伊豆国にいた源頼政の二男広綱や孫の有綱を捕らえるために大庭景親を東国に下向させました。頼政・仲綱の顛末を見た広綱・有綱は奥州の藤原秀衡のもとに出奔します。

その頃、以仁王挙兵に与同した関東武士団は新たな盟主を源頼朝に見いだそうとしました。これによって、頼朝周辺も挙兵に向けて緊迫した空気が漂ってきます。

1180年(治承四年)8月17日、源頼朝は伊豆国目代館にい山木兼隆に夜討ちをかけ、これを討ち取りました。源頼政との主従関係から宇治川合戦に軍勢を出した伊豆国最大の豪族工藤茂光は、頼朝挙兵を見て参陣、頼朝勢は300余騎に膨れ上がったといいます。

同年8月23日、頼朝勢は相模国に入ろうとしましたが、大庭景親・伊東祐親の率いる頼朝討伐軍と石橋山で戦って敗れます。工藤茂光は自害、北条時政の嫡男で義時の同母兄である宗時は討死するなど、頼朝に従った武士たちは次々倒れていきました。頼朝は山中に逃れ、後に安房国に渡ります。

 

北条宗時。時政の嫡男で弟は義時・時房
生年未詳~1180年(治承四年) 父は北条時政で母は未詳。 宗時は北条三郎と称しました。「増鏡」には「太郎は宗時、次郎は義時といへり」と記載があり、三郎・太郎いずれにしても嫡男だった可能性が高いとされています。ちなみに、義時は四...

 

安房国では、安西景益以下の重代の家人と上総氏・千葉氏の大豪族が参加したことによって軍勢を立て直すことに成功し、9月13日に房総半島を北上し始めます。そして、千葉常胤が下総国府を占領したことによって上総ー武蔵ー鎌倉への道が開かれ、10月2日に葛西清重・足立遠元に加え、先の石橋山の戦いで平家方についていた畠山重忠・河越重頼・江戸重長らが合流し、ついに10月6日には鎌倉に入ります。

同年10月20日には富士川の戦いで平維盛が率いる軍勢を破り、返す手で常陸国で独自の動きを示していた佐竹一族を金砂城に攻めて下しました。この間、駿河目代橘遠茂を討ち取って駿河国を入った武田一族は頼朝と協調関係に入り、敗走する平家を追って駿河遠江両国を制圧します。

一方、信濃国で挙兵した木曽義仲は10月13日に、父義賢の地盤であった上野国に入り、平氏家人藤姓足利俊綱(足利将軍家の足利氏とは異なります)と対峙しました。その後、源頼朝との緊張が高まったことにより、上野国の武士団を傘下にまとめて、12月24日に信濃国に戻りました。その後、越後にいた平氏の有力家人城氏を破って北陸道に進出、越前国まで勢力を拡大させます。

源頼朝と木曽義仲は、両国の勢力が交錯した上野国の支配圏をめぐり、たびたび緊張を高めることになりますが、源頼朝は平家勢力と直接的に接することがなくなったことから、鎌倉政権を安定させるための体制づくりに注力します。11月17日、侍所を設置して和田義盛を侍所別当に補任しました。翌年には鶴岡八幡宮の本格的造営を始めています。

木曽義仲討伐と一ノ谷の戦いまで

1180年(治承四年)12月、平家一門は京都の目前まで攻め寄せてきた近江源氏の軍勢を鎮圧するために、平知盛軍を主力とした精鋭を投入し、激しい攻防戦が近江国で繰り広げられました。そのような中、後白河法皇の近臣平親宗が源頼朝に密使を送ったという噂が京都に流れます。親宗の甥平時家が流人として上総国にいて、上総広常の婿となっていることから、平親宗が源頼朝へ密使を送ったとしても不思議ではなかったからです。頼朝と後白河法皇の関係はこの頃から始まったといえそうです。

1182年(寿永元年)、源頼朝は内乱が膠着状態に入ったのを見て後白河法皇に対して和平を求めた密使を送り、源氏の棟梁としての存在を強くアピールしています。

1183年(寿永二年)7月、木曽義仲は平維盛率いる追討使を倶利伽羅峠で撃破し、平家を追撃して、ついに入京しました。この時まで雌伏を余儀なくされていた畿内や近江・美濃の源氏、遠江国で平家と対峙していた安田義定が一斉に呼応して京都に進撃します。そして、平家は都落ちします。

しかし、木曽義仲の周囲には、武将として優れた人材が集まっていても、後白河法皇や朝廷と互角に折衝できる政治・行政に通じた人材は少なかったのです。木曽義仲は、後白河法皇の仕掛けてくる謀略と、畿内・西日本の深刻な飢饉(養和の飢饉)に悩まされ、徐々に疲弊していきます。さらに、瀬戸内に退いて態勢を立て直した平家との戦いに敗れました。この戦いは、備中水島の戦いと呼ばれますが、源姓足利氏二代当主足利義兼の異母兄で義清(仁木・細川氏祖)と義長が戦死しています。

この間、頼朝は朝敵を解かれて従五位下の位階に復帰します。そして、後白河法皇との間に密使を往復させ寿永二年十月宣旨と呼ばれる宣旨を発給させることに成功しました。この宣旨は全国で同時多発的な広がりを見せた「内乱」という非常事態の中で、源頼朝に対して東海道・東山道諸国の国衙(朝廷の地方出先機関で、その長は国司)に対する軍事および軍政の指揮権を付与するもので、源頼朝に当該地域の治安回復と徴税に対する責任を負わせるものでした。つまり、頼朝は朝廷から東海道・東山道の統治を認められたことになります。

しかし、この中に木曽義仲の根拠地信濃・上野の二か国が入っていたことが、木曽義仲の後白河法皇に対する憤りを爆発させ、後白河法皇・後鳥羽天皇を幽閉するという法住寺合戦へと発展させていくことにります。

頼朝は木曽義仲が京都で孤立したのをみて源範頼・義経を大将とする上洛軍数万騎を派遣、1184年(元暦元年)1月20日に木曽義仲を討ち取って入京を果たしました。ときに頼朝38歳。

同年2月5日、上洛軍を指揮した源範頼・源義経は一ノ谷の戦いで平氏を敗走させました。これらの功績によって、頼朝は3月27日に従五位下から正四位下に叙されます。位階六階を飛び越した異例の出世です。6月5日、源頼朝の奏請によって、三河守源範頼・駿河守源広綱・武蔵守平賀義信が補任されました。鎌倉殿の知行国関東御分国の始まりです。

変貌する頼朝

木曽義仲を滅ぼし、平氏に対する優勢が明らかになったこの時期から、源頼朝は独裁者の顔を見せていきます。

御家人としてではなく盟友として振舞おうとする武田氏や源氏一門に対する粛清を始めました。6月16日の一条忠頼誅殺はその始まりです。一方、平氏一門を離れて八条院のもとに身を潜ませていた平頼盛が鎌倉に下ってくると、頼朝はこれを歓待し、平家都落以前の官位に復帰できるように奏上しています。頼盛は池禅尼の子だったことから、池禅尼の頼朝の命乞いに対する恩返しと言われています。

頼朝は、流人時代に温かい態度で接した人物や挙兵初期の段階で命を落とした人々の縁者に対して手厚く報いる一方で、明確な上下関係に入ろうとしない人々を徹底して排除する冷酷さを見せました。この時期から、源頼朝は東国武士団が担ぐ神輿から、鎌倉幕府を動かす権力者に変貌していきます。

平家滅亡まで

1184年(元暦元年)8月8日、源範頼が平家追討のため山陽道に出発します。一方で、鎌倉では8月28日に公文所(のちに政所)を開設し、10月20日には問注所を開設しました。これによって、鎌倉幕府の基本機能を統括する政所・問注所・侍所の中核がそろいます。

1185年(文治元年)2月22日、源義経が屋島の戦いに勝利し、3月21日には源範頼・義経が壇ノ浦の戦いで勝利することによって、平家を滅ぼしました。この時、三種の神器のうち、宝剣が海中に沈んだと言われています。平家滅亡によって内乱が集結した4月27日、源頼朝は従二位に叙されました。公卿の仲間入りです。ときに39歳。

頼朝は、1183年(寿永二年)以来派遣していた上洛軍に属していた御家人のうち、源頼朝の推挙によらず任官した者を厳しく糾弾します。

官位は朝廷が認定して授けるもので、全国的に通用する社会的地位を表すものです。鎌倉を中心とした新しい社会秩序の形成を考える源頼朝は、古来からの官位制度を否定するのではなく御家人たちを統制する手段として、鎌倉殿が官位の推挙権を掌握する方式を取ろうとしたのです。

ですから、鎌倉殿頼朝の推挙なしに検非違使に任官していた義経は、身内ゆえにさらに厳しく処断されたと考えられます。もちろんそれだけが理由ではなく、義経自身の身勝手な行動に対して東国武士が反発していたことなど、頼朝が構想する鎌倉幕府の根底を揺るがしかねない存在になっていたことなどが挙げられます。

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