鎌倉幕府4代将軍・藤原(九条)頼経の生涯

鎌倉時代
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室町幕府は足利氏、江戸幕府は徳川氏が代々将軍をつとめたことは多くの人の知るところですが、鎌倉幕府にいたっては、源頼朝くらいしか知られていないのではないでしょうか?せいぜい2代将軍頼家、3代将軍実朝の源氏将軍まででしょう。
実朝が兄頼家の遺児公暁によって暗殺された後、将軍となった摂家将軍・親王将軍と呼ばれる将軍たちは存在すら知られていないのが実情と思われます。
そもそも、藤原氏(九条家)や皇族(親王)が幕府の将軍になる時点で、私たち後世を生きる人間にとって訳がわからないのです。
とにかく、「源氏」以外の鎌倉将軍は、室町・江戸将軍と比較して、あまりにも「無名過ぎ」なわけですが、初の武家政権たる鎌倉幕府の将軍を無視するわけには行きません。

今回は、源氏将軍滅亡後に鎌倉将軍となった藤原(九条)頼経を通して鎌倉幕府を見てみましょう。侍所と一緒に出てくる政所を開設するには「条件」があったという意外な話も少しだけしていますよ。

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実朝の死と頼経の鎌倉下向

1203年(建仁三年)9月、源実朝が3代将軍になってから15年の月日が経っていました。27歳になった実朝に跡継ぎ誕生の気配はありません。

1218年(建保六年)2月、将軍の後継者を心配した母北条政子は、弟の北条時房と共に「熊野詣(和歌山県の熊野那智大社に詣ること)」と称して上洛し、後鳥羽上皇の乳母で院御所の実力者「卿二位」藤原兼子と会談します。この会談で、後鳥羽上皇の皇子「冷泉宮頼仁親王(よりひとしんのう)」を実朝の後継として迎える約束を得ることに成功しました。さらにこの半年後、政子は「従二位」に叙任されます。政子、公卿の仲間入りです。

1219年(承久元年)1月27日、右大臣拝賀のため鶴岡八幡宮に参詣した将軍実朝が頼家の遺児公暁によって暗殺されるという、とんでもない事件が起こります。

同年2月、政子は二階堂行光を京都に派遣し、兼子との約束通り後鳥羽上皇の皇子「頼仁親王」の下向を要請しました。

鎌倉は御家人が多く住むようになっていますが、今主人である将軍を失って動揺しています。ここで親王様が将軍として鎌倉に下向すれば平穏無事になるに違いありません(意訳)

しかし、後鳥羽上皇はこれを拒絶。

皇族が将軍として鎌倉に下向したら、京都と鎌倉に日本は分裂してしまうので、その話は無理。皇族以外なら、摂政・関白の子でもいいよ。(意訳)


「話がちがう!!」と幕府はカンカンになり、執権北条義時は弟の時房を大将として1千騎の軍勢を上洛させました。明らかに、後鳥羽上皇に対する威嚇行動です。しかし、後鳥羽上皇はたじろぎません。のらりくらり。

結局、執権北条義時は頼仁親王の鎌倉への下向をあきらめて、改めて、藤原(九条)道家の三男である三寅(のちの頼経)を4代将軍候補として迎えたのでした。

三寅の父道家の母は源頼朝の妹の娘にあたります。また、道家の妻で三寅の母西園寺綸子も、頼朝の妹の血を引いていました。頼朝の遠縁という血筋によって三寅は選ばれたわけです。

この4代頼経と5代頼嗣は、摂政・関白を輩出する藤原氏出身の将軍という意味で「摂家将軍」と呼ばれます。


幕府は、頼朝につながる源氏の血筋を重視して摂家将軍を迎えたようにみえますが、もともと後鳥羽上皇の皇子を将軍に頂こうとした時点で、頼朝の血筋を重視していないのです。


幕府が求めていたのは「源氏よりも高貴な血筋」でしょう。鎌倉幕府は、京都の朝廷から独立を目指した政権です。もちろん、「朝廷」からの独立で、天皇からの独立ではありません。

ですから「京都の朝廷に対抗できる血筋は皇族以外にない」ということを考えていても不思議ではありません。

しかし、後鳥羽上皇はお見通しだったわけです。皇族が鎌倉で将軍になることによって、朝廷の言うことを聞かなくなることを予想していたのしょう。後鳥羽上皇は本当にすごい人です。

「仕方なく」摂関家から将軍をいただくことになった幕府は、せめて「頼朝の血統に近い人物を・・・」ということで三寅にしたのでしょう。

「えっ?藤原?何で??」と不思議がる御家人に対し、幕府としても「頼朝様の血筋に近いよー。源氏みたいなもんでしょ?」と説得しやすいと考えたのかもしれません。

実朝の死から半年後、わずか2歳の九条道家の三男の三寅は6月25日京都を発ち、7月19日鎌倉に到着しました。まず大倉にある義時邸に入り、その日に政所始の儀式が行われましたが、公卿の身分ではない三寅に政所開設の資格はなく、従二位にあった政子によって将軍の代行が宣言されたのでした。尼将軍政子の誕生です。

 

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政所は、公卿(従三位以上の官位)しか開設することができない決まりです。鎌倉幕府が勝手にそう決めているわけではなくて、遥か太古の大宝律令時代からの決まり事です。政所は、鎌倉幕府成立とともに、侍所と一緒に登場してきますから、鎌倉幕府独自のものと思いがちですか、そうではありません。

 

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公卿になれば、政所を設置できるのです。政所という部署を開設して、「エラくなった家」を切り盛りさせるのです。イメージとしては、個人商店が会社になるような感じでしょうか?
この源家の家政担当部門の政所を、幕府の行政機関として格上げしたのが頼朝で、頼朝が従三位ではない頃は公文所(くもんじょ)と呼ばれていました。
豊臣秀吉の正妻お寧の方は、従三位以上になって北政所と呼ばれるようになります。この場合は、政治担当部署ではなくて、「部署を開けるくらいエラい人」という意味合いで使用されています。

三寅は鎌倉殿として幼少期を過ごします。鎌倉殿と将軍の違いですが、鎌倉殿は御家人と直接的に「私的」な主従関係をもつ主のことで、将軍とは幕府機構を通して「公的」に御家人と主従関係をもつ主のことです。似たようなものですけれども、少し意味合いが異なっています。

将軍就任

1225年(嘉禄元年)7月、三寅の後見をつとめてきた尼将軍北条政子が没します。同年12月29日に8歳になった三寅は執権北条泰時を烏帽子親として元服し、名を頼経と改めました。

1226年(嘉禄二年)1月27日、征夷大将軍の宣下を受けます。ついに九条頼経は、公私にわたって御家人の主人となったわけです。

1219年(承久元年)1月27日の実朝暗殺以来、鎌倉幕府には征夷大将軍がいなかったのですが、私的な主の鎌倉殿「頼経」と従二位の公卿「北条政子」がいたから存立できたともいえます。北条政子が尼将軍といわれるゆえんもこの辺りにあるといえます。

1230年(寛喜二年)12月9日、13歳の頼経は2代将軍源頼家の娘竹御所(28歳)を妻に迎えます。摂家藤原出身の頼経と源氏将軍家の血筋の結合を意図したものですが、この婚姻は「こっそり」執り行われました(息子で5代将軍頼嗣の婚姻も「こっそり」行っています)。

頼経と竹御所の仲は良かったようです。しかし、1234年(文暦元年)7月27日に竹御所は難産のすえ男児を死産し、竹御所もそのまま没してしまいます。享年31歳。竹御所の死によって、頼朝の血筋を引く子供の誕生はありえなくなりました。このことにショックを受けた多くの御家人が涙したといいます。

その後、頼経は藤原親能の娘大宮局(二棟御方)を妻に迎え5代将軍となる頼嗣を授かります。

源氏改姓の試み

何度も言っていますが、鎌倉幕府は藤原氏出身の将軍は気に入らないのです。本来は、皇族の将軍を希望していたのですから、摂関家の将軍をいただいても何も嬉しくなかったのでしょう。
朝廷から独立した「東国政権」を志向する鎌倉幕府が、朝廷の顔(天皇を除く)ともいうべき藤原氏を担いでいるのはおかしな話です。そこで、幕府は頼経の源氏改姓を試みました。

『明月記』によれば、1226年(嘉禄二年)1月、頼経の将軍宣下のため京都に派遣された佐々木信綱は、関白近衛家実と会談して、「頼経様の姓を藤原氏から源氏に変えたいので、OKかどうか春日大社(藤原氏の氏神)に聞いてきますね」というようなことを伝えています。
そして、佐々木信綱は春日大社に詣でて「頼経様を源氏に変えてもいいですか??」と聞きました。春日大社側は「神様はダメと言ってますよ」と信綱へ伝え、源氏への改姓は断念することになりました。

1231年(寛喜三年)2月、頼経は従四位下に叙されます。3月3日、頼経は鶴岡八幡宮に勧請された春日別宮を参拝して、叙位の報告をしています。この件からわかるように、頼経はあくまでも藤原氏出身の将軍として振舞っていて、2歳から鎌倉に住み、うすーい頼朝につながる血をもってしても、源氏という自覚は生まれなかったのです。当然と言えば当然ですが。

上洛

頼経は、1238年(暦仁元年)2月27日上洛し、10月13日まで約9か月間京都に滞在しています。
鎌倉歴代将軍による上洛は頼朝の1190年(建久元年)・1195年(建久六年)の2回と、頼経の上洛の3回のみです。京都に憧れまくった実朝が上洛していないのは残念ですが・・・。

頼経は、九条家から招待された形で上洛しています。なぜ、招待されたのかというと、実家の九条家の事情があったのです。その事情とは・・・

1235年(嘉禎元年)、頼経の父九条道家は承久の乱で配流された後鳥羽・順徳両上皇の京都への帰還を幕府に相談しています。
幕府は「はぁ?お前何言っているの?」と反対し、「もう九条家は信用ならない」という感じで思いっきり警戒するようになりました。

頼経の上洛は、父道家が幕府に不審感をもたれている中で行われたことから、頼経を接待することで幕府の警戒を解こうとしたと考えられています。

上洛した頼経の供奉人(付き添い)は、鎌倉からついてきた御家人は当然ですが、九条家の家司(九条家の職員)もメンバーとして参加しています。
摂関家の職員が将軍にお仕えするという例のない待遇です。将軍は武士の中では一番エラいかもしれませんが、朝廷を含む日本全体で考えれば、摂関家の方がエラいのです。

さらに、父道家のはからいによって、頼経は検非違使別当に任官しています。

九条家による頼経への供奉人の提供、京都の治安維持を職務とする検非違使別当任官、いずれも九条家と幕府との関係修復を目指したものと考えられています。

頼経に従って上洛した執権北条泰時は親幕派の西園寺公経と会見した以外目立った動きをしていないのとは対照的に九条家は頑張っています。「幕府と九条家は仲がいいんだぜ!」と一生懸命アピールしたのです。

しかし、のちに北条時頼の時代になって、「九条家は幕府転覆を画策しているだろう??」と因縁をつけられ、お家壊滅寸前まで追い込まれています。

大殿(おおいとの)

1242年(仁治三年)6月、執権北条泰時が没し、孫の経時が4代執権になります。ちなみに、泰時の息子で、経時の父時氏は若くして没していました。
執権経時19歳、頼経25歳です。将軍が執権より年長となり、将軍と執権の年齢が逆転したのです。
さらに、頼経の周囲には名越流北条光時や有力御家人三浦氏等の反執権勢力が集まっており、若き執権経時の立場は危ういものでした。

1244年(寛元二年)4月21日、経時が烏帽子親となり頼経の嫡子頼嗣(よりつぐ)の元服が行われました。そして、経時は強引に将軍交代を画策します。

頼嗣元服の同日、すでに夕方になっていましたが、経時は被官(家来)の平盛時を京都に派遣し、「頼嗣を征夷大将軍にして下さい!」と将軍宣下を奏請します。頼経が将軍になって18年の月日が経っていました。
考えれば、18年も経つと「藤原出身の将軍」という意識は御家人の中から薄らぎ、頼経=将軍=鎌倉殿の権威は自然と高まるはずです。反執権勢力のシンボルとして担ぎ上げられてもおかしくありませんし、強固な主従関係が生まれていたのかもしれません。

4月28日になって、経時の思惑通り朝廷は頼嗣を征夷大将軍に任命します。執権経時が頼経に将軍職辞任を要求したのも同然でした。

強引に将軍の座から引きずり降ろされた前将軍頼経の経時への反発は大きく、経時が「頼経様はもう将軍ではないので、大好きな京都に早く帰ってくださいよ」と何度も帰京を勧めても、「ふざけんな!こうなったら居座ってやるわ!」と言わんばかりに頼経は鎌倉に居つづけます。

1245年(寛元三年)7月、天変と日ごろの病を理由に頼経は出家しますが、「大殿(おおいとの)」と呼ばれ、将軍頼嗣の後見役としてその存在感を示していました。

宮騒動

1246年(寛元四年)閏4月1日、前将軍頼経を引きずり下ろして、頼嗣を新将軍として擁立し、自身の基盤固めに奔走していた執権経時は23歳で死去。死の直前、経時は執権職を弟時頼(20歳)に譲りました。翌5月「宮騒動」と呼ばれる内紛が勃発しました。

【宮騒動・寛元の政変】執権経時・時頼兄弟による反執権派追放劇
1219年(承久元年)、3代将軍源実朝が2代将軍頼家の遺児で鶴岡八幡宮別当の公暁によって暗殺され、源氏将軍は3代で途絶えます。 実朝後の鎌倉殿を継ぐため、わずか2歳で鎌倉に下向した三寅(さんとら)は、1225年(嘉禄元年)に元服し藤原頼経...


頼経近臣による時頼排除の計画があったらしく、結局頼経派が敗北します。頼経側近の名越流北条光時は頼経に謀叛を勧めたとされていますが、出家に追い込まれす。光時の弟時幸は謝罪の後、病死したとも自害したとも伝えられています。また側近藤原定員も出家しましたが、彼の自白によれば経時の早世は頼経の呪詛によるものだったことが露見したといいます。
6月7日には、頼経に近い後藤基綱・狩野為佐・千葉秀胤・三善康持が評定衆を解任され、康持は問注所執事も罷免されました。

京都では、道家・頼経父子が共謀し、経時に続いて時頼を除こうとした計画であったと報じられ、九条家は朝廷の重要職から外されます。

頼経追放

宮騒動の結果、もはや頼経が鎌倉に滞在することは許されなくなりました。7月11日、頼経は鎌倉を追い出され、28日に京都の六波羅探題北条重時邸に入りました。将軍から退いた頼経は、鎌倉に居座り続けましたが、実は以前より強く上洛を希望していたとも伝わります。であるならば、上洛は鎌倉追放という形で実現してしまい、皮肉と言えば皮肉です。

宮騒動から10年後の1256年(康元元年)8月11日、頼経は39歳で病死しました。上洛後の頼経は人望を失っていたと伝えられており、墓所すら不明というあり様です。

鎌倉幕府存続のために鎌倉に下向し、その鎌倉幕府によって追放された頼経の悲し過ぎる生涯でした。

 

参考文献

細川重男編『鎌倉将軍・執権・連署列伝』吉川弘文館。

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