足利義氏【前編】・和田合戦と承久の乱

鎌倉時代
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鎌倉時代における足利氏の基礎を築いたといえる足利義兼は、1199年(正治元年)3月8日に頼朝の死を追うようにこの世を去りました。

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義兼の子供たち

義兼の子には太郎義純、二郎義助、三郎義氏、四郎義胤(二郎義助の子)と2人の娘がいました。このうち、生母が北条時政の娘で、政子の妹である時子を母とする義氏(1189~1254)が足利氏を継ぎます。

太郎義純は、生母が遊女だったことから庶子とされましたが、1205年(元久二年)に畠山重忠が北条氏によって滅ぼされると、重忠の正妻だった北条時政の娘を娶り、畠山氏を称することとなります。畠山の名跡を惜しんだ北条氏の計らいによるものだったと言われていますが、この足利義純から畠山・岩松の両氏が輩出され、畠山氏は室町幕府管領・守護大名としてその名を天下にとどろかせます。

二郎義助は、承久の乱の宇治川の戦いで戦死し、その子義胤は義兼の子としてあつかい四郎を称し、桃井氏の祖となります。鎌倉幕府倒幕において足利尊氏・直義兄弟を支え、観応の擾乱では直義派について尊氏を苦しめることになる桃井直常の先祖に当たります。

また、義兼の娘のうち一人は将軍実朝の正室として縁談がありました。しかし、実朝はこの話を断って、1204年(元久元年)大納言坊門信清の娘信子を正室に迎えています。このことは実朝の京文化へのあこがれを示す逸話として後世に伝わっていますが、この縁談は北条氏によって阻まれたとする説もあります。

実朝と同じ源氏の名門で、北条氏とも血縁の濃い足利義兼の娘は、新将軍実朝の正室に相応しいと言えます。しかし、かつて比企氏が頼家の外戚として権勢を伸ばして北条氏の地位を脅かしたように、足利氏が比企氏のような存在になる可能性は否定できません。

実朝に嫁いだ坊門信子の兄忠清には、時政の娘が嫁いでいることから北条氏と坊門氏は懇意にしていました。

したがって、北条氏にとってどちらが危険かといえば、軍事力を持つ足利氏の方でしょう。また、坊門忠清は後鳥羽上皇の近臣でもありましたから朝幕関係の調整を行いやすいといったことも考えられます。

義氏の登場

1199年(正治元年)1月、将軍頼朝が死去し頼家が後を継ぎます。しかし、頼家の独裁的行動が御家人の反発を生み、4月には頼家の訴訟における直裁が停止され、13人の宿老の協議によって裁断される合議体制に移行します。

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この合議制はうまくいったとは言えず、幕府内部の対立は激化していきます。頼朝の忠臣で頼家の傅役だった梶原一族、頼朝・頼家の乳母を輩出した一族で、頼家の外戚だった比企一族が相次いで滅ぼされます。

 

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1203年(建仁三年)、北条時政は頼家を出家させます。そして、弟実朝を将軍に立て、自らは政所別当となって幕府内での勢力を拡大したのでした。1204年(久元元年)、頼家は幽閉されている伊豆修善寺において殺害されます。

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さらに時政は謀略を巡らせ宿老排除につとめます。1205年(元久二年)には、「坂東武者の鑑」と言われ他の御家人から尊敬されていた畠山重忠に狙いを定めて、攻め滅ぼしてしまいます。17歳の足利義氏は、この討伐軍に加わりました。

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時政が出家したあとは、義時が執権として幕政を仕切っていきます。この義時もまた、対抗勢力を倒して北条氏の権力確立につとめました。

1213年(建保元年)、侍所別当で御家人の間で隠然たる勢力をもっていた和田義盛を挑発し、和田合戦(建保合戦)において和田一族を滅ぼします。この後、義時は侍所別当に就任し、政所別当と侍所別当を兼務する執権が政治を行う「執権政治」が成立します。

足利義氏の活躍が本格的になるのはこの頃からです。義氏25歳。

和田合戦

義氏が華々しい活躍を見せた和田合戦について見てみましょう。

5月2日午後4時ごろ、和田義盛は嫡男常盛以下150騎を率いて将軍御所を襲いました。義盛方は三手にわかれて幕府南門と義時邸の西門、北門を攻撃しましたが、守備していた武士がよく防戦したため、それ以上進入することができずにいました。次に大江広元邸が攻撃されましたが、横大路にいたって政所前で戦いが繰り広げられます。波多野忠綱・三浦義村が防戦につとめたものの、午後6時ごろには和田勢は幕府を包囲しました。

足利義氏は、北条泰時・朝時らと御所を守り、防戦に尽力します。この時、勇猛とうたわれた朝夷名三郎義秀が惣門を破って乱入し、御所の庭に乱入、火を放ったために実朝は法華堂に避難します。

義氏は、政所前の橋のそばで義秀と行き合って一騎打ちとなり、義秀に鎧の袖をつかまれ、これを振り切ろうと馬を駆って濠を飛びえます。鎧の袖は中ほどから引きちぎられましたが、馬も倒れず、義氏も落ちず、これを見た者は手を討ち舌を鳴らして、見るものはみな「両士の勇力互いに強弱なし」と驚嘆したといいます。義秀は橋を回って、なおも義氏に迫りましたが、鷹司冠者(熱田大宮司藤原範忠孫野田三郎朝氏父)が命を捨てて両者の間に入ったので、義氏は逃れることができたといいます。

戦いが長引くにつれ、和田勢は疲れをみせ始めます。幕府軍はやがて攻勢に転じ、義氏は和田勢を米町辻・大町大路に攻めたてていきます。和田勢はいったん由比ヶ浜辺りに退きます。

翌3日午前4時ごろ、横山時兼が波多野忠常らの援軍を引き連れて和田勢に合流します。3千騎ほどになった和田勢は再び攻勢に出ます。午前8時ごろ、曽我・中村・二宮・河村諸氏の軍勢が稲村ケ崎周辺に到着し形勢をうかがいます。そこに実朝の和田義盛追討の命令が下ると、続々と北条方に加わり始めます。さらに千葉成胤も一族を率いて北条方に加わります。午前10時ごろ、義盛は再び御所を攻撃するために出発しようとしますが、若宮大路は北条泰時・時房が、名越方面は源頼茂が、大倉方面は佐々木義清・結城朝光が、そして町小路には義氏がすでにそれぞれ防衛線を張っていました。義氏は町大路で奮戦し和田勢を撃退します。

九州の住人小物資政は義盛の陣に攻め入ったが、かえって義盛に討ち取られます。京から鎌倉に来ていた公家の出雲守藤原定長は義盛の攻撃をよく防戦する働きをみせ、さらに日光山別当法眼弁覚も弟子や同宿の者を率いて、町大路で義盛方の中山行重と戦い逃亡させています。

また、義盛方の土屋義清・古郡保忠・朝夷名義秀の3騎は轡をならべて周囲の軍兵を攻撃し、北条方が退散することも度々だったといいます。

両軍は持てる勢力をすべて投入する激しい合戦でした。

ところが、勇猛果敢な土屋義清が甘縄から亀谷を経て、窟堂の前を通って旅御所に進もうとしたところ、赤橋の近くで流れ矢にあたって戦死します。この義清の死後以降、義盛方の討ち死にが続くようになりました。

午後6時頃には、和田義直が伊具馬盛重に討ち取られ、義直の死を聞いた義盛は大いに落胆し、江戸能範の所従に討ち取られました。続いて義重・義信・秀盛らも討ち取られます。朝夷名義秀は500騎ほど率いて船で安房国に逃げ、常盛・朝盛・山内政宣・岡崎実忠・横山時兼・古郡保忠らも行方をくらまします。和田勢はここに壊滅したのでした。

5月7日、和田合戦の論功行賞が行われ、北条一族をはじめ多くの御家人が新恩を給与されました。義氏の恩賞について、「吾妻鏡」などの史料には記載がないため明らかにはなっていませんが、当然義氏も恩賞を受けたと考えられます。

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足利氏の地位上昇につとめる義氏

義氏は幕府内の対立抗争の中にあって、若年ながら去就を誤らず、北条氏と結びその権力確立に力を貸していますが、1215年(建保三年)ごろには、北条泰時の娘を妻に迎えて、さらに北条氏との連帯を強めています。義氏27歳。

1217年(建保五年)には北条時房に替わって武蔵守となり、さらに1222年(貞応元年)には義時のあとを受けて陸奥守となっています。この武蔵守や陸奥守は、幕府の執権・連署が任ぜられる官職で、時房が没したあとは政所別当となり、政所政務に関与しその下文に連署しています。さらに寛喜年間(1229~1232)には左馬頭に任ぜられています。

このように、義氏は北条氏の権力確立に力を貸しながらも、幕府内部での足利氏の地位上昇をはかっていったのでした。

 

承久の乱

1219年(承久元年)1月、将軍実朝が暗殺され、源氏将軍の血統が断絶すると、源氏の一族阿野時元が挙兵するなど、将軍の地位を狙う者があらわれ、世情は動揺します。

このような情況のなかでも義氏は慎重に行動し、北条氏に協力する態度を崩しませんでした。同年7月、京都から2歳の三寅(のちの藤原頼経)が鎌倉殿として鎌倉に下向してきました。義氏はその際の行列に、泰時と並んで頼経の輿の直前に侍しています。将軍の後継が決まったものの、世情の不安はおさまらず、加えて鎌倉で大火が起こるなどの災難が続いたので、不穏な空気は日増しに高まっていったといいます。

1219年(承久元年)5月20日、北条義時・時房・足利義氏が大江広元邸に集まり、小弓の会を催しています。これは幕府の首脳が小弓の会と称して会合し、世情の動揺の沈静化と幕政の安定化の策を議論したと考えられているようです。義氏が幕府首脳の一員として、その存在感を発揮していたことをうかがわせるエピソードです。

かねてより幕府に反感を抱いていた後鳥羽上皇は、関東の不穏な世情を幕府衰退のあらわれとみて討幕に立ち上がり、1221年(承久三年)5月、北条義時追討の院宣を全国に下します。承久の乱の始まりです。

幕府側は尼将軍北条政子・執権義時を中心に団結し、東海道・東山道・北陸道の三手から19万の大軍を攻め上がらせます。義氏は北条泰時・時房・三浦義村・千葉胤顕と共に東海道大将軍となり10万騎を率いて京都に進撃しました。

この承久の乱での東海道軍の大将の配置は先例となり、後醍醐天皇倒幕挙兵のときは足利尊氏は、名越流北条高家とともに大将軍となって上洛軍を率いています。

6月5日には尾張一宮に到着し、京方が防衛線を敷いた木曽川攻撃の担当が定められました。義氏は池瀬に向かいましたが、武田勢率いる東山道軍が美濃大井戸の京方を撃破したことから京方は雪崩をうって退却します。鎌倉方は、逃げる京方を追って進み、13日には近江野路より瀬田・宇治に分れて進軍することになります。義氏は泰時とともに宇治に向かいます。この日、泰時に属した三浦泰村と軍議を無視して進み、京方の猛反撃を受けて多くの死者を出す失敗をしています。

しかし、14日には義氏は付近の家を壊して筏を組み、これに兵馬を乗せ宇治川を渡りながら戦い、京方を撃破する武功を挙げます。宇治川渡河に成功した鎌倉勢は、翌15日には京都に入り、乱は終わりを告げました。

宇治川の戦いで、幕府軍は多くの戦死者を出しました。足利氏では、義氏の兄義助が討死します。高惟義・義定父子が義氏に供奉して従軍しましたが、惟義は60歳で宇治川で戦死し、義定は父子の勲功者として近江国栗太郡辺曾村を拝領し、一族の大平惟行が京方の武士池田左近貫持を討ち取っています。

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若き足利義氏は、母が北条政子・義時の妹時子ということもあり、北条氏に協力しつづけています。さらに和田合戦・承久の乱での武勇・功績によって、足利氏の幕府内における存在感をさらに高めていったのでした。

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