亀の前事件・源頼朝と北条政子の夫婦喧嘩から見える政子の権力

源頼朝
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政子の気性の激しさを象徴するエピソードとして知られる「亀の前事件」。政子の嫉妬が半端ない事件として、後世では少々「笑いのネタ」的扱いですが、この壮大な夫婦喧嘩の中に、政子の権力の源泉を見出すことができます。

のちに、尼将軍として御家人を率いた政子。

今回は、「亀の前事件」をとおして、北条政子を見てみましょう。

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政子、頼家を懐妊

1181年(養和元年)12月。政子が病の床に臥せました。

政子が病に倒れたと聞いた御家人たちは、『吾妻鏡』に「営中上下群集」と記されるように、政子の容体を心配して将軍邸に集結します。

頼家を懐妊したことによる「つわり」だったのですが、このように御家人から慕われる御台所だったようです。

政子の妊娠は順調に経過し、3月9日には「着帯」を行います。千葉常胤の妻が献上した帯を頼朝自らが結び、丹後局という女房が陪膳(儀式で食事を給仕すること)しています。

頼朝、御密通

1182年(寿永元年)6月1日、頼朝は「御寵愛妾女亀前」を小中太光家の小窪の宅に招き入れます。亀の前は1年ほど前から頼朝が「御密通」していた女性です。

一方の政子は7月12日、お産が近づいたので比企谷の比企邸宅に移ります。「お産所」として、普段の住居とは別のところへ移ったのでした。お産の雑事を取り仕切る奉行は梶原景時です。

この時代、御台所のお産には男性が関わっていて、武士が奉行となって務める武家政権の重要な公的政務だったのです。

近世・近代になって、「お産」は穢れものとされ、女性のみが関与するようになってしまいますが、中世の「お産」は、男女ともに関わる一大事だったのです。

このように、御家人たちが総力を挙げて政子の出産に向けて準備を整えている頃、さらに別の女性に手を出そうとします。

7月14日。頼朝は、御家人伏見広綱を通じてある女性にラブレターを送ります。その女性とは、頼朝の兄悪源太義平(義平は平治の乱で戦死)の後家で、新田義重の息女祥寿姫。それを聞いた新田義重は、政子がこの事実を知れば大変なことになると警戒して、すぐに息女を師六郎に再婚させました。

この結果、頼朝は新田義重を徹底的に嫌い、新田氏は鎌倉時代を通して没落していくことになります。もちろん、この件だけが理由ではないのですが・・・。
>>>新田義重が登場する記事はこちら

なぜ、このみっともない体たらくな鎌倉殿の姿を、『吾妻鏡』は記しているのでしょうか?

側室の一人や二人いるのが当たり前の時代に、わざわざこのようなことを記すのは、「政子」が偉大だったと認識されていたからでしょう。つまり、「政子という偉大な正妻がいながら、鎌倉殿は何をやっているのか!?」という、後世からの非難というわけです。

ちなみに、『吾妻鏡』は鎌倉後期に北条氏の手によって作られた鎌倉幕府の書物ですから、「政子」への崇拝の念は一段と強かったと考えられます。

8月11日、政子は産気づき、頼朝が御産所の比企邸を訪れます。他の御家人たちも続々終結します。「在国の御家人等、近日多く以て参上」とあり、あらかじめ鎌倉近辺に来ていた御家人たちが幕府のまわりに集まり始めたことがわかります。

そして8月12日、政子は男子を出産しました。のちの頼家です。

乳母には河越重頼の妻(比企尼の娘)が選ばれ、御家人たちは「代々の佳例」に従って護刀を献上します。

源家嫡男誕生に、鎌倉は沸き返ったことでしょう。

そして10月17日、政子と若君は鎌倉殿邸に戻ってきました。いよいよ、頼朝は「年貢の納め時」を迎えます。

亀の前事件

11月10日。政子は懐妊中に起こった亀の前と頼朝の密通を、父時政の後妻「牧の方」から知らされます。このことを聞いた政子は「ぶち切れ」。

政子は、牧の方の父(兄とも)である牧宗親に命じて、頼朝の命令で亀の前をかくまっていた伏見広綱邸を「破却(破壊)」させ、広綱に恥をかかせます。広綱は亀の前を連れて、鐙摺(あぶずり)の大多和義久邸に避難しました。

11月12日。頼朝は、亀の前が避難した大多和義久邸を訪れ、牧宗親を呼び出します。怒れる頼朝は、宗親の髻(もとどり:ちょんまげの原型)を切って、宗親に恥辱を与えます。この時代、髻を人に見せたり、切られたりすることは「死ぬほど恥ずかしい」ことでした。

その時、頼朝は「御台所を重んじるのは神妙なことだが、このような大事を、なぜ内々にあらかじめ知らせなかったのか?」と言い放ち、宗親は泣いて逃亡してしまいます。

11月14日。牧宗親に鬱憤を晴らした頼朝は鎌倉に戻ります。おさまらないのは牧氏側。牧の方の夫北条時政は牧宗親を慰めるために、突然鎌倉を出奔し、伊豆に引き上げてしまいます。

それを聞いた頼朝は大いにあわてて、梶原景季を時政の子義時のもとに遣わし呼び出します。「義時、お前はどうする?親父について行くのか??」みたいなことを聞きます。

義時は「親父のことは当方には関係のないこと」みたいな回答をし、それを聞いた頼朝は大いに喜びます。「義時は、わしの気持ちをよう分かっておる。時政に従わないお前は偉い!義時は必ずや源家の子孫を護る人物になるだろう!」みたいなことを言って大はしゃぎ。

身内の少ない頼朝にとって、北条氏はかけがえのない身内。しかも、義時は頼朝お気に入り第一位の子分でしたから、義時までもが自分から離れていくことを心配したのでしょう。

この時代の頼朝は、まだまだ天下に号令を発するほどの力を持っていませんでした。

12月10日。亀の前は元々かくまわれていた小中太光家の屋敷に戻ってきました。亀の前は、政子の「気色(機嫌)」を大変恐れていましたが、頼朝の寵愛は日に日に増していったので、頼朝の言うことに従っていたそうです。頼朝の密通は、政子懐妊以前の状態に戻って、落ち着くかのように見えました。

ところが、この事件は別の形をとって決着します。

12月16日、亀の前をかくまい、牧宗親によって屋敷を破壊された伏見広綱は、遠江国(静岡県)に配流されます。その理由を『吾妻鏡』は「御台所の御憤り」のためと記しています。

つまり、政子の怒りをしずめるため、頼朝は忠臣だった伏見広綱を自らの手で処罰しなければならなかったのです。

亀の前事件から見える政子の権力

亀の前事件は、頼朝の浮気をめぐる政子の嫉妬事件として少し「笑いのネタ」的な事件ではありますが、政子の権力が相当なものだったことが読み取れる事件です。

そもそも、政子の嫉妬事件とされていますが、嫉妬事件のわりには、亀の前を頼朝から遠ざけるなどの具体的な行動を政子はとっていません。政子が本当に嫉妬深かったどうかは実は疑問なのです。多分、嫉妬深かったのでしょうけど・・・。

さて、政子は伏見広綱の屋敷を破壊しましたが、このことから「鎌倉殿と主従関係のある御家人」に対して、政子は鎌倉殿を介さずに御家人を直接処分することができたことがわかります。御台所政子は鎌倉殿と同等の立場にあったことが見えてくるのです。

そして、このことは頼朝自身が認めています。頼朝は牧宗親に「御台所を重んじるのは神妙なこと」と述べています。

御家人が主君である鎌倉殿の命令に従うのは当然ですが、その正妻の意志を尊重することは重要な義務で、正妻の意志を尊重してこそ「神妙(立派)」な人物と認められることが分かります。

御家人からすれば御台所政子は、鎌倉殿と並んで「主人」だったのでしょう。

最終的に、亀の前事件は伏見広綱の配流で終わりまが、この配流は頼朝の命令によって行われました。伏見広綱にとっては災難以外何ものでもないですが、頼朝は他の御家人に対して失態をみせることになりました。

亀の前をかくまうように伏見広綱に命じておきながら、その責任を負わせて配流を命じなければならないという失態です。

政子は、この浮気事件を通して、頼朝に主君としてのありかた(命令は一様であること)について示唆したと考えることもできるのです。

むすび

亀の前事件は、政子の嫉妬深く直情的な性格をあらわした事件として着目されますが、政子の権限の大きさがわかる事件でもあります。

御台所政子は鎌倉殿に並び立つ存在だったことを示していて、そうだったからこそ頼朝死後、幕政を仕切り、承久の乱では御家人を一つにまとめることができたのです。

尼将軍になったゆえんは、幕府草創期からの政子と御家人との間に主従関係が育まれていたからでしょう。

 

御家人に慕われた尼将軍・北条政子の生涯
北条政子は、征夷大将軍ではありませんが、頼朝・頼家・実朝の源家三代将軍が滅んだあと、実質的な将軍の役割を果たしたことから、「尼将軍」と呼ばれました。 北条政子は、日本三大悪女の一人に入っているようですが、悪女どころか御家人たちに慕われた女...

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