鎮西探題

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【鎮西探題滅亡】阿蘇治時と最期の探題赤橋英時

1331年(元弘元年)、後醍醐天皇の2度目の倒幕運動は失敗に終わりました。後醍醐天皇は幕府に捕らえられて隠岐へと流されます。 →元弘の変 しかし、その余波は畿内だけでなく各地に広がっていきました。 後醍醐天皇の皇子護良親王が吉野で...
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【鎮西探題③】歴代の鎮西探題。選任から見えてくる得宗家の思惑。

元の再来襲に備えて異国警固番役に就いている御家人・非御家人が、恩賞や所領争いのために鎌倉や六波羅に来ることは幕府としては困る話でした。 なぜなら、防備の持ち場を武士たちが離れてしまうからです。 そこで幕府は、1286年に鎮西談議所を設置...
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【鎮西探題②】鎮西探題の成立と初代探題金沢実政

元軍の再来襲に備えて、幕府は九州の御家人・非御家人を防備へ動員し続ける必要がありました。 そのような緊迫した中で、恩賞をめぐって九州の武士たちが鎌倉や六波羅にまで訴訟に来るというのは、持ち場を離れることになり幕府としては容認しがたいもので...
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【鎮西探題①】鎮西談議所と異国打手大将軍

東国政権として誕生した鎌倉幕府は、西国に勢力を伸ばすにつれて出先機関を作っていきます。幕府の拠点を西へ移すという発想はなかったようです。鎌倉幕府は、承久の乱を機として西国支配強化のために六波羅探題を設置しました。 今回は、蒙古襲来・元寇を...
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