【鎮西探題②】鎮西探題の成立と初代探題金沢実政

鎮西探題
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元軍の再来襲に備えて、幕府は九州の御家人・非御家人を防備へ動員し続ける必要がありました。

そのような緊迫した中で、恩賞をめぐって九州の武士たちが鎌倉や六波羅にまで訴訟に来るというのは、持ち場を離れることになり幕府としては容認しがたいものでした。

そこで、幕府は鎌倉や六波羅にかわる組織を九州に設置します。それが鎮西談議所だったわけです。

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今回は、鎮西談議所をさらに強化した鎮西探題の話です。

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鎮西探題の成立

1296年(永仁四年)8月頃。金沢流北条実政が長門から博多に赴きます。実政には、御家人訴訟の確定判決権が与えられていました。確定判決権とは、最終的な判決を下すことができる権限です。かつて、異国打手大将軍であった北条兼時・時家には確定判決権は与えられていませんでした。

六波羅探題の場合、重要案件は幕府が最終判断を下していましたが、永仁四年以降、鎮西での相論(訴訟)は鎮西探題で裁かれるのが原則となります。

鎮西における堺相論の判決も、実政に与えられました。堺相論とは、隣接する荘園と荘園との境界線をめぐって起こる争いのことです。

荘園の領主は本所とも呼ばれますが、本所と本所との境界争いに幕府は手を出さずに、朝廷が最終的に判断するのが幕府成立以来の原則でした。

しかし、この頃の鎮西では状況が変わっていました。蒙古襲来に備えるために、御家人だけでなく、本所一円地(荘園領主に仕える武士=非御家人)にも石塁の築造などの負担を強いていました。

このように、鎮西では防備に本所一円地の武士を動員していることから、朝廷の堺相論に関与しないという原則を持ち出すことは出来ないのでした。したがって、鎮西探題の実政に強い判決権が与えられたのは当然だったのです。

こうして、確定判決権をもつ鎮西探題が成立したのです。1296年(永仁四年)8月頃のことでした。

鎮西探題の言葉の意味は、六波羅探題と同じように、博多における幕府の機関を指す場合もあり、また探題の長官を指す場合もあります。また機関の所在する場所を表すこともありますので、文脈にて判断をお願いします。

つまり探題は、役所名・長官・場所の3つの意味があるのです。

鎮西探題の場所は明らかではありませんが、博多の櫛田神社周辺にあったと考えられています。

なお鎮西探題の長官には、六波羅探題と同じく北条氏が任命されることになっていたようです。

鎮西探題の整備

1299年(永仁七年)、鎮西探題にも幕府と同じように引付が整備されました。

鎌倉や六波羅が五番引付まで置かれたのに対して、鎮西では三番引付までしか置かれていません。各引付には10名程度が所属しています。

最初の引付頭人は、一番から順に金沢流北条時直・少弐盛経・大友貞親でした。

金沢時直は、探題となった実政の弟です。少弐盛経は少弐経資の子で、大友貞親は大友親時の子。蒙古襲来以前から鎮西で活躍する少弐氏・大友氏のそれぞれ嫡流を任命しています。

引付頭人は、一番が北条氏の有力者、二番・三番は少弐氏・大友氏の嫡流がつとめるのが先例となったようで、基本的にはこの形が探題滅亡まで存続します。

引付の上部組織である評定衆は、鎌倉や六波羅と同じように、引付頭人が兼ねていたようです。引付頭人ではない評定衆は最初に4名ほど任命され、のちにおおむね合計10名が評定衆の定員となったようです。

引付に属する奉行人は、鎮西探題の被官や幕府の奉行人に出自を持つ者、少弐・大友両氏の一族・被官・守護級の有力御家人とその一族、九州の御家人などで構成されていました。

 

初代探題金沢実政

初代の鎮西探題長官は金沢実政です。金沢実政という人物について簡単ですが見ていきましょう。

実政は、金沢実時の子でした。

鎮西探題系図

実時は、非常に優秀な少年だったようで、3代執権で伯父の北条泰時に見込まれて11歳で幕府小侍所別当となり、のちに10歳で小侍所別当となった北条時宗に実務の手ほどきをしています。

また、実時は金沢文庫の創設者として知られ、北条随一の文化人でもありました。

実時には5人の息子がいたとされています。実村・篤時・顕時・実政・時直です。実村・篤時・時直は庶子で、庶子とは家督を継がない子のことです。家督を継ぐのは嫡男とよばれます。嫡男は兄の顕時でした。

実村と篤時、時直の母がどんな人物かは明かではありませんが、顕時と実政の母は北条政村の娘です。北条政村は7代執権で、時宗が8代執権に就任したのちは、連署として時宗を支えた幕府・北条氏の宿老です。

武家では母親の出自の違いによって、庶子と扱われたり、嫡男と扱われたりすることはよくあることです。それは足利氏も然りです。

さて、蒙古襲来に備えた守護一斉交替の際には、実時が豊前の守護となりましたが、実時の名代として現地に派遣されたのは実政でした。

1275年(建治元年)末、実政は守護代として豊前に赴きます。このとき、実政も異国打手大将軍の役割を担っていたと考えられています。

実政は、嫡男顕時の同母弟にあたります。嫡男と同じ母から生まれた実政を鎮西に派遣するのは、父実時にとって胸割かれる思いだったのでしょう。実時が鎮西に赴く実政に対して置き文を残しています。「実時の置き文」として知られています。

1181年(弘安四年)に元軍を撃退した実政は、1183年(弘安六年)に豊前守護から周防・長門守護に移りました。

長門国は九州北部とともに幕府の重要な防衛拠点でした。かつて1275年(建治元年)の守護一斉交替の際には、北条宗頼が守護として現地に赴任していました。宗頼は、得宗である時宗の弟にあたり、かつて異国打手大将軍だった北条兼時の父でもあります。

長門守護は周防守護も兼任していたことから、一般的な守護よりも大きな権限をもっていたようで、長門探題と呼ばれるようになります。

長門国にも異国警固番役が組織されていたので、訴訟を口実に武士たちが持ち場を離れて鎌倉や六波羅に行くのを避ける必要がありました。鎮西探題の設置にいたったのと同様、長門国にも探題を設置する必要性がでてきたと考えられます。

長門探題には、鎌倉・六波羅まで訴えるかどうかを事前に判断する権限が与えられていたと考えられます。鎮西探題のように確定判決権まではもっていません。

実政は、異国征伐のために鎮西に下向した人物です。ですから、長門・周防守護には、異国征伐の指揮官という肩書を持っている実政が適任と考えられたのでしょう。

1296年(永仁四年)。このように西国での経験が豊富な実政が初代の鎮西探題として再び長門・周防国から鎮西に移ります。

元軍を撃退した指揮官で、周防・長門守護として両国の裁判に携わって、軍事・行政両面での実政の実績は、新たに設置された鎮西探題にふさわしいものだったに違いありません。

1302年(乾元元年)12月に死去。享年54歳。

 

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鎮西探題 鎌倉時代 鎌倉幕府
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