13代執権・普恩寺北条基時~嘉元の乱と幕府滅亡を経験した執権

鎌倉時代
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1286年(弘安九年)、父北条時兼の子として生まれました。母の名は不明。1299年(正安元年)、14歳で従五位下左馬助に任ぜられています。

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極楽寺流普恩寺氏

北条泰時の弟重時に始まる北条氏の門流を「極楽寺流」とよびます。重時の子、長時(赤橋氏)、時茂(常葉氏)、義政(塩田氏)、業時(普恩寺氏)の庶家がありました。基時はこの業時の孫にあたります。「普恩寺氏」と称するのは、孫の基時が創建した普恩寺という寺院名に由来しています。普恩寺という寺院はもうありません。

基時の祖父業時は連署をつとめましたが、父時兼は31歳で死去したこともあって、執権や連署に就任していません。1296年(永仁四年)に父が没したとき、基時は11歳でした。

鎌倉時代を通じ、得宗家以外で執権を輩出している北条氏一門は、赤橋氏、普恩寺氏、政村流北条氏、金沢氏、大仏氏の5氏です。

 

両統迭立の中での六波羅探題就任

1301年(正安三年)6月7日、北条宗方の後任として六波羅探題北方となり上洛しました。このとき16歳の若年でしたが、極楽寺流は時房流(佐介氏・大仏氏)とともに六波羅探題を輩出している家系です。

鎌倉後期の幕府人事は先例・家格主義です。要するに北条氏に生まれ、北条氏でも上位の家柄に生まれれば、幕府の要職につくことができたわけです。基時もその一環で六波羅探題に就任し、1303年(嘉元元年)10月に常葉時範(極楽寺流)と交代するまでの2年少々をつとめました。

この時期の朝廷では、持明院統と大覚寺統が交互に皇位に就く両統迭立が行われていて、皇位継承に関する問題が発生するたびに、鎌倉幕府はその調整に腐心していました。

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基時が着任する直前の1301年(正安三年)1月には、後伏見天皇(持明院統)の譲位を受けた後二条天皇(大覚寺統)の践祚があり、大覚寺統の治世となりましたが、基時着任後の同年八月には持明院統の富仁親王(のちの花園天皇)が皇太子となっています。また、1303年(嘉元元年)閏4月には持明院統側の策士と知られる京極為兼が配流先の佐渡から召還されるなど持明院統の巻き返しが行われています。

1303年10月20日、同じ極楽寺流の時範と交替して鎌倉に戻りました。同二年6月6日越後守。同三年8月22日三番引付頭人となります。

得宗貞時の時代

基時が鎌倉に戻る直前の幕府では大きな変化が起こりました。1301年(正安三年)8月に執権北条貞時、次いで連署大仏宣時が辞任し、執権北条師時(得宗家・宗政の子)、連署北条時村(政村流)に代わりました。同時期に執権・連署が交代する事態は、鎌倉時代を通じてもこの時だけです。

引付の編成も1302年(乾元元年)9月には五番から八番に変わり、翌年9月には七番に、さらに同年12月にはまた五番に戻るというように目まぐるしく変わりました。さらに引付編成の改変に加えて、改変以外の引付頭人の罷免・任命も続き、貞時の時代は、政治的混乱を示していました。

 

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嘉元の乱

1305年(嘉元三年)4月23日、北条宗方が突然討手を差し向けて連署北条時村を殺害し、5月4日には宗方もまた大仏宗宣によって討たれる事件が起こりました(嘉元の乱)。宗方は貞時の従弟にあたり、得宗家執事・侍所所司などの要職をつとめる得宗家の有力者でした。

『保暦間記』によれば、宗方は貞時の娘婿になることで執権となった北条師時に嫉妬し、師時及び同じく貞時の娘婿であった煕時(政村流)打倒を企て、その手始めとして煕時の祖父である時村を襲撃したとされてます。

 

【嘉元の乱】北条貞時の専制政治!と思いきや北条氏の内紛というオチ。
貞時は、御家人の窮状を救うために永仁の徳政令を出しましたが、逆に社会の混乱を招きました。また、貞時は引付や越訴を廃止することができなかったばかりか、権力を得宗に一元化することもできませんでした。 →永仁の徳政令 得宗専制政治と言われ...

 

しかし、嘉元の乱には謎が多く、その真相は自らのもとに権力を集中させようとした得宗貞時による計画とその失敗という見方があります。すなわち、貞時は北条氏庶流の最長老となった時村を殺害することで反対派を一気に打倒しようとしたというわけです。

これは、12年前に貞時自身が内管領平頼綱を打倒した「平禅門の乱」と同様の方法ですが、時村殺害への反発が予想以上に激しく、貞時は討手の斬首によって事態の収拾をはかろうとするもおさまらず、やむを得ず自らの指示通りに実行した宗方を切り捨てて決着をつけたというのが真相で、その背景には得宗家と北条氏庶家との確執があったとされています。

1303年(嘉元元年)10月に鎌倉に戻った基時はこの渦中にいましたが、幕府役職に就任することもなく、動きは確認できていません。

嘉元の乱後の幕府人事

嘉元の乱が終息したのち、幕府の新体制は執権師時のもと、連署には、北条宗方を討った大仏宗宣が就任しました。

基時は1306年(徳治元年)に讃岐守に任ぜられています。1309年(延慶二年)3月、四番引付頭人に降格させられていますが、三番引付頭人に金沢流北条貞顕が就任したことによるもので、同三年2月三番引付頭人に復帰し、さらに1311年(応長元年)10月二番引付頭人に昇格しています。このとき26歳。

6年後、1311年(応長元年)に執権師時、得宗貞時が相次いで亡くなりました。執権には連署の大仏宗宣が昇任し、一番引付頭人の煕時が連署に昇任しました。この頃になると引付頭人の序列がかなり形式化しています。翌年1312年(応長二年)に執権宗宣は死去。宗宣の跡を受けて執権となったのが連署北条煕時でした。

この時の引付頭人は、一番塩田国時、二番普恩寺基時、三番伊具斉時(時高)、四番大仏維貞、五番金沢顕実でした。執権煕時は在任中連署を置きませんでした。また、理由は定かではありませんが、煕時の執権就任後の1313年(正和二年)、基時はそれまで8年間つとめていた引付頭人を解任されています。煕時と基時の間に確執があったと言われています。

1年間の執権

煕時は執権を3年間つとめましたが、1315年(正和四年)7月に病によって出家し、その6日後に死去しました。後任の執権となったのは基時。このとき30歳。祖父業時が連署をつとめていますが、普恩寺流としては初めての執権就任となりました。

しかし、基時は、翌1316年(正和五年)7月に執権の座を北条高時に譲って出家しました。執権在任期間はわずか1年。

辞任の理由は政局や体調不良等によるものではなく、得宗高時が14歳になったことによります。時宗・貞時の先例(時宗は14歳で連署、貞時は14歳で執権に就任)を踏襲して、高時も14歳で執権に就任することが求められたからです。

宗宣・煕時・基時という貞時没後の3代の執権はそのためのつなぎ役で、ちょうど時頼と時宗の間をつとめた赤橋長時のような「眼代」(代理)であったと考えられています。

 

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幕府滅亡とともに

1333年(元弘三年)5月、鎌倉は新田義貞らによる攻撃にさらされました。討幕軍は、洲崎・化粧坂・巨袋坂・極楽寺坂から攻め込んで、各地で激戦が展開されました。

『太平記』によれば、基時は、化粧坂を5日間にわたって死守しましたが、稲村ケ崎から新田軍が鎌倉に侵入するのを知って退き、わずか20騎ばかりになった郎等とともに自ら建立した普恩寺に赴いて自害しました。享年48歳。

 

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この時、六波羅探題をつとめていた子息仲時が近江番場で自害をしたという知らせを聞き、普恩寺御堂の柱に「待てしばし死出の山辺の旅の道 同じく越えて浮世語らん」と書きつけたと伝えています。

 

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参考文献

秋山哲雄『鎌倉幕府滅亡と北条氏一族』吉川弘文館。

細川重男『鎌倉将軍・執権・連署列伝』吉川弘文館。

北条氏研究会編『北条氏系譜人名辞典』新人物往来社。

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