【鎌倉幕府滅亡】新田義貞と北条一族の最期

鎌倉時代
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足利尊氏謀反と六波羅探題滅亡は、鎌倉幕府を恐怖のどん底に陥れたことでしょう。そして、幕府の本拠地東国でも反乱の狼煙が上がり、いよいよ北条一族にその時が来るのです。

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新田義貞挙兵

鎌倉を攻撃して北条一族を滅亡させたのは、新田義貞とされています。足利尊氏の子の千寿王がいたから、新田義貞は北条に勝利出来たという説もありますし、私もそうあって欲しいのですが、新田義貞が鎌倉を落としたという事実に変わりはありません。

上野国で新田義貞が挙兵におよんだ経緯を「太平記」から見てみましょう。

1333年(元弘三年)1月。幕府の軍勢は、楠木正成が籠もる千早城を攻撃しましたが、その幕府軍に義貞も加わっていました。

吉野で挙兵していた護良親王(もりよししんのう)は倒幕を命じる文書(令旨)を全国に発していました。

令旨を手に入れた義貞は、病といつわって戦場を離脱し、新田氏の本拠地である上野国に帰国してしまいます。

一方その頃、畿内・西国の反乱を鎮圧するため、幕府は関東の国々から臨時の兵糧を徴収していました。

その催促は、義貞の上野国新田荘世良田の有徳人にもおよびます。有徳人とは、一般的に裕福な人々のことを指し、この時代は新たに富を集積した有徳人と呼ばれる人々が力を持ってきます。

 

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世良田までやってきた幕府の使者の催促ぶりは、目に余るものだったようで、それを見かねた義貞が幕府の使者を斬り捨てました。

幕府の使者を斬り捨てるという暴挙を起こした以上、新田義貞には倒幕の道しか残されていませんでした。もちろん、倒幕を決意していたからこそ斬り捨てたと言えるかもしれません。

倒幕を決意した義貞は、生品神社(群馬県太田市)に一族を集めて挙兵しました。

破竹の勢いで進軍する倒幕軍

1333年(元弘三年)5月8日ごろに挙兵した義貞は、11日には武蔵国の小手指原(埼玉県所沢市)辺りで幕府軍と戦闘におよびます。

新田方には、信濃国の市村王石丸の代官や小笠原貞宗らが合流しました。常陸の塙政茂もこの頃に新田方につきます。

一方の幕府方は、桜田貞国を中心とした軍勢でしたが、劣勢となった貞国らは、武蔵府中へと敗走しました。

5月15日には、武蔵府中の近く分倍河原(東京都府中市)辺りで再び両軍が衝突します。

幕府方は北条泰家を大将とする軍勢を派遣していました。泰家は得宗北条高時の弟です。

新田方には、三浦一族の大多和氏や、陸奥の大河戸氏の代官、武蔵の熊谷直春らも加わわりました。

勢いを増した新田方に幕府の軍勢はまたも敗れ、泰家は後退を余儀なくされます。さらに、新田方は南下を続け、相模国の世野原(横浜市瀬谷区)の合戦でも勝利し、鎌倉の目前まで迫ります。

同じころ、泰家の別動隊として出発していた金沢貞将(さだゆき)は、武蔵国鶴見(横浜市鶴見区)の付近で小山秀朝・千葉貞胤らと交戦していました。

有力御家人である小山氏や千葉氏の一族も幕府に反旗を翻したのです。鶴見の戦いで敗れた貞将は、鎌倉へと敗走しました。

東国で倒幕の兵を挙げた御家人たちは、北条氏のやり方に不満を持っていたともいわれていますが、彼らは幕府内でそれなりの地位を得ており、北条氏と懇意にしてきた経緯があります。

たとえば、新田義貞は得宗の被官として有名な安東氏の娘を妻に迎え、北条氏と親しい関係にありました。

鶴見で戦った千葉貞胤も、幕府方大将金沢貞将とは従兄弟同士です。千葉貞胤の母が金沢貞将の叔母という関係でした。

足利氏だけでなく、多くの東国御家人が北条氏と良好な関係を築いてきていたのです。

それでは、なぜその関係が破綻したのでしょうか?

やはり、西国での反乱を鎮圧するための人的・物的な負担が求められるようになったことが大きな要因ではないか?と言われています。

この時代は、天候不順による飢饉の時代でもありました。飢饉で四苦八苦しているところに、兵糧などの負担がのしかかった東国御家人はその不満を爆発させた可能性があります。

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その意味では、西国の反乱は確実に幕府を瓦解に追い込んでいたのでした。

鎌倉攻防戦

1333年(元弘三年)5月18日、鎌倉をめぐる攻防戦が始まりました。この頃までに新田方には、陸奥の石河義光、常陸の大塚員成、伊豆の天野経顕、陸奥白河の結城宗広らが加わっていました。

情勢を見守っていた武士たちが、幕府の劣勢をみて次々と新田方に流れていったのです。

新田方は、北から順に、巨福呂坂(こぶくろざか)、化粧坂(けわいざか)、極楽寺坂(ごくらくじざか)の三方に分れて鎌倉に攻め込みました。

巨福呂坂からは堀口貞満が、化粧坂からは新田義貞・脇屋義助が、極楽寺坂からは大舘宗氏が、それぞれ攻め入りました。

それに対して幕府も軍勢を三つに分けて鎌倉を防衛します。

巨福呂坂には赤橋守時、化粧坂は金沢越後左近大夫将監(正式な名は不明)、極楽寺坂は大仏貞直を大将とする軍勢が送られます。

巨福呂坂では、幕府方の赤橋守時が優勢に戦って洲崎まで進軍しました。赤橋守時は、足利尊氏の正室登子の兄で、幕府の執権です。

しかし、洲崎の激戦で敗れ、守時は戦死しました。鎌倉幕府最後の執権は壮絶な最期を遂げたのでした。

かわって金沢貞将が巨福呂坂に派遣されました。貞将は鶴見の戦いで敗れたのち、鎌倉に帰ってきていたのでした。

化粧坂を攻めていた新田義貞は、大舘宗氏の戦死を聞いて極楽寺坂方面にまわります。極楽寺坂の霊山山は激戦地となり、ここをめぐって四日間も攻防戦が繰り広げられました。

5月21日、幕府方の大仏貞直が討死して新田勢が霊山山を確保すると、戦況は決定的となります。新田軍は一気に幕府軍を追い込んでいきました。

義貞が稲村ケ崎に太刀を投げ入れると潮が引いたというエピソードは後世の創作によるものだといわれています。

本当に太刀を投げ入れたとしても、鎌倉に突入する配下の軍勢を鼓舞するために、パフォーマンスを行ったのでしょう。

 

話は戻って、極楽寺坂が突破されても、巨福呂坂では5月23日まで戦闘が続いていました。幕府の金沢貞将は奮戦を続けたのです。

「太平記」によれば、貞将は戦場からいったん得宗の北条高時のもとに戻り、最後の挨拶をしたそうです。

その場で、高時から六波羅探題に任命する旨を記した御教書を受けとり、相模守任命を約束されたといいます。

もちろん貞将はそれが実現すると思っていなかったでしょうが、名誉なこととして喜んだといいます。

御教書を受けとった貞将は、そのまま巨福呂坂の戦場に向かい討死しました。

また、化粧坂でも激戦が続いていました。当初は金沢越後左近大夫将監を中心とした軍勢が編成されていましたが、それに加えて普音寺基時の軍勢が送られてきました。基時の子の仲時は、最後の六波羅探題北方の人物です。

仲時はすでに5月9日に近江国番場(滋賀県米原市)の一向堂(現蓮華寺)で自害していました。

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この知らせは鎌倉にも届いたと考えられます。そして、5月22日には、父基時も息子仲時の後を追うように自害します。

基時と同じく化粧坂を守っていた金沢越後左近大夫将監は、新田方の軍勢を突破して戦場から離脱したとされています。そして、幕府滅亡後の1335年(建武二年)に長門で挙兵した越後左近大夫将監は、化粧坂の大将と同一人物ではないかと言われています。

巨福呂坂と化粧坂での幕府軍の奮戦も虚しく、極楽寺坂方面を破られたことが決定打となって、幕府軍は敗北を喫しました。

得宗北条高時や内管領の長崎円喜ら幕府中枢の人々は葛西谷(かさいがやつ)の東勝寺に逃げ込みます。

そして、5月22日。高時をはじめ北条一族あわせて280人以上が自害しました。

後に足利尊氏によって、高時の邸宅跡には宝戒寺が建立されました。境内には得宗をまつる徳崇権現が安置されています。

北条時政以来、約150年にわたって鎌倉幕府と共に歩んできた北条氏は鎌倉とともに壮絶な最期を遂げました。

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