【鎌倉幕府滅亡】足利尊氏、六波羅探題を攻め滅ぼす

六波羅探題
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足利高氏が六波羅探題を攻め滅ぼす話にまいりましょう。

その前に、後醍醐天皇による倒幕運動のおさらいをしておきます。

そもそも、後醍醐天皇が倒幕に走った理由は、自らの皇位を維持し、自らの子孫に皇位を継承させるという野望のためで、そのためには両統迭立(りょうとうてつりつ)の原則を固持する鎌倉幕府を倒すよりほかに手段はありませんでした。

 

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両統迭立・天皇家の分裂が南北朝の発端に!

 

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正中の変・後醍醐天皇、倒幕計画を立てるも隙だらけで失敗

 

1324年(元亨四年)、倒幕を計画しますが、計画メンバーが妻にうっかり口を滑らし、それが六波羅探題の耳に入って失敗に終わります。後醍醐天皇は幕府に釈明し、何とか許されました。これを正中の変と呼びます。

>>>元弘の変について詳しく

元弘の変・後醍醐天皇の倒幕と隠岐配流

 

1331年(元徳三年)、2回目の倒幕を計画します。これは皇統の行く末を心配した後醍醐天皇の近臣が幕府に密告することで露見します。

進退きわまった後醍醐天皇はひそかに京を抜け出して笠置山に籠もり挙兵します。河内・和泉で活動していた楠木正成もこれに呼応して挙兵します。

この事態に対応するために、幕府は軍勢を京都に派遣。北条一族と足利高氏(のちに尊氏、以下、本記事では尊氏で統一)が大将軍として軍を統率していました。この幕府軍の大将選出も承久の乱の「先例」に従ってのことでした。

幕府軍は後醍醐天皇のこもる笠置山を落とし、楠木正成は姿をくらまします。幕府に捕まった後醍醐天皇は、承久の乱における後鳥羽上皇の「先例」に従って隠岐に流されます。

この一連の事件を、元弘の変といいますが、これからお話しする内容も元弘の変に含まれたりします。

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広がる倒幕運動

後醍醐天皇が隠岐に流されたあとも、畿内の情勢は依然として緊迫したままです。倒幕の挙兵を起こした後醍醐天皇のエネルギーは各地に伝播していったかのようです。

そして、1332年(元弘二年)12月。倒幕のエネルギーが爆発します。

後醍醐天皇の皇子の尊雲法親王(そんうんほつしんのう)は、還俗して護良親王(もりよし)となっていました。

彼は令旨(親王などが発する命令書)を各地に発して反幕府勢力に北条氏打倒を広く呼び掛け、吉野で挙兵します。

北条氏は、もとは伊豆国の一地方役人に過ぎないことを非難し、朝廷を軽んじる彼らの横暴を許してはならないのという論理でした。

それに呼応して、どこかで潜んでいた楠木正成は千早城で挙兵し、さらに赤坂城を奪回します。

正成はゲリラ戦を続けながら河内国・和泉国を次第に勢力下に入れていき、天王寺で六波羅軍を撃退します。その後も千早城に籠もり、走木や飛礫(つぶて)などを使った戦術で六波羅軍を翻弄し、兵站を破壊して釘付けにしています。

1333年(元弘三年)1月、赤松則村(円心)が播磨で挙兵し、2月には六波羅軍を撃退して摂津国に進出します。

さらに各地で反北条の旗を掲げる者が続きます。四国では伊予の河野一族や忽那一族が挙兵し、瀬戸内海の要衝である鞆の浦(広島県福山市)を占拠します。

このように倒幕の動きは畿内から各地に広がりを見せていました。

倒幕勢力は幕府軍を撃滅するにはいたりませんでしたが、彼らの頑強な抵抗によって急速に幕府が動揺していきます。

1333年(元弘三年)閏2月、後醍醐は流されていた隠岐を脱出します。出雲国から伯耆国名和湊(鳥取県名和町)に入り、そこで名和長年(なわながとし)に迎えられ、船上山(せんじょうさん)に立て籠りました。

これに対して、隠岐の守護佐々木清高は後醍醐天皇を追って船上山を攻撃しましたが、敗れて北陸に逃れていきました。

この佐々木清高の敗戦をきっかけに、地滑り的に反幕勢力が各地に広がっていきます。

足利尊氏の出陣

もはや六波羅探題だけでは対応できないと判断した幕府は、再び大軍を京都に派遣することを決定します。大将軍は名越流北条高家と足利尊氏でした。

今回の派遣も、後醍醐天皇が笠置山に立てこもった元弘の変と同様に、承久の乱の先例が意識されたと考えられます。

ところが、尊氏は今回は体調不良を理由に派遣を辞退しています。

1331年(元弘元年)の後醍醐天皇が笠置山に立て籠ったときは、父貞氏の死後三日と経っていない中での出陣要請だったこともあり拒否をしましたが、幕府の再三の命令に仕方なく出陣した経緯があります。

今回もまた、幕府は病身の尊氏に再三にわたって出陣の命令を出しました。仕方なく尊氏は上洛することを決めます。

妻の登子(執権赤橋守時の妹)と二人の子、竹若と千寿は鎌倉にとどめ置かれました。

これを幕府が人質に取ったと解釈する向きがあるようですが、妻や幼い子を連れて出陣することはあり得ないはずです。幕府からすれば、「先例」に従って足利尊氏は鎌倉を出陣したに過ぎなかったのではないでしょうか?まさか謀反を起こすとは考えもしていなかったことでしょう。

「太平記」によれば、この時にはすでに倒幕を計画していたらしいのですが…

3月27日、足利尊氏は鎌倉を出発しました。「太平記」では、三河国矢作に到着したとき、尊氏は後醍醐天皇から受け取った綸旨について一族の吉良貞義に相談したところ、貞義から北条氏攻撃をすすめられたそうです。

尊氏は、4月中旬に京へ到着します。

六波羅探題の北方北条仲時と南方北条時益との軍議の結果、足利尊氏は山陰道、名越高家は山陽道を経て、後醍醐天皇がたてこもる船上山に向かうこととなりました。

ところが4月27日、京都を出発した両軍でしたが、久我縄手(京都市伏見区)で赤松勢と交戦した名越高家は早々に敵の矢に射抜かれて戦死してしまいます。

足利尊氏の謀反

高家の別動隊として京都を出発していた尊氏は丹波国に向かい、所領である丹波国篠村(京都府亀岡市)に到着します。その日のうちに結城宗広、周防忠兼・大友貞宗・島津貞久らに挙兵の参加を呼びかけました。

4月29日、篠村八幡宮に北条氏打倒の願文を奉納。

5月2日、尊氏の2人の子は鎌倉脱出をはかりました。しかし、すぐに幕府の知るところとなり、追っ手が差し向けられます。

竹若は駿河国浮嶋が原(静岡県沼津市)で追っ手に殺され、逃げ延びた千寿王は新田義貞の軍に合流しました。この千寿王こそ室町幕府2代将軍足利義詮です。

5月7日、京都に引き返した尊氏は六波羅探題への総攻撃を開始します。

足利勢は京都西の嵯峨方面から、赤松勢は京都西南の大山崎方面からから、後醍醐天皇の近臣千草忠顕は京都南の伏見方面からそれぞれ攻撃を開始しました。

各地で壮絶な戦いが展開されましたが、どの戦いにおいても六波羅軍は敗退しました。

北条仲時と時益は、後伏見・花園上皇、光厳天皇をともなって京都を脱出し鎌倉に向けて逃亡を開始します。

しかし、彼らを狙う野伏があちらこちらに出没するようになります。そして、東山を越えてすぐの山科四宮河原(京都市山科区)あたりで、北条時益は頸を射抜かれ絶命しました。

5月9日、北条仲時の兵はわずかに700騎ほどに減っていました。伊吹山のふもと、番場の宿(滋賀県米原市)にさしかかろうとすると2、3千の軍勢が待ち構えていました。

仲時は番場の一向堂(現在の蓮華寺)の前で自害し、432人の従者が続いて自害していきました。蓮華寺には川のように血が流れていたといいます。六波羅軍はここに全滅したのでした。

 

>>>六波羅探題の最期

 

後伏見・花園上皇と、光厳天皇は捕らえられ京都に送られます。

こうして、足利尊氏らの謀反によって六波羅探題は滅亡したのでした。

>>>新・六波羅探題「高氏??」

鎮守府将軍足利高氏と征夷大将軍護良親王

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