六波羅探題①・六波羅探題成立と役割についてご紹介

六波羅探題
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鎌倉幕府滅亡に至った戦いとして、足利尊氏の六波羅探題攻めと新田義貞の鎌倉攻めが挙げられます。

皆さんも鎌倉幕府については幾度となく触れたことがあると思いますが、六波羅探題について触れる機会は中々ないのではないでしょうか?

「足利尊氏が六波羅探題を攻めた」でしれっと終わりがちな六波羅探題について今回は見ていこうと思います。

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六波羅探題ができるまで

六波羅とは、京都の鴨川の東岸で五条通と松原通の間にある地名です。現在は「ハッピー六原」が六波羅の代名詞という嘘のような本当の話。六原に住む人は、ほとんどハッピー六原で買い物しますので。

もちろん、六波羅蜜寺や六道珍皇寺、西福寺など見どころもたくさんありますので、ぜひ足を運んでいただきたいエリアです。清水寺や八坂の塔から鴨川方向におりていったところですので寄り道してはいかがでしょうか?

六波羅探題があった場所は現在は京都市東山区轆轤(ろくろ)町。この地名が表すとおり、平安時代はこの世とあの世を結ぶ境界と信じられてきました。小野篁(おののたかむら)伝説と密接な関わりがあります。

平安時代末期、ここには平氏の六波羅邸がありました。

1183年(寿永二年)、平家が都落ちした後、この場所は平家没官領(へいけもっかんりょう)として鎌倉幕府に没収されました。1185年(文治元年)に上洛した北条時政は、六波羅探題の前身となる京都守護の任にあたる際、この六波羅に邸宅を構えます。

1190年(建久元年)11月7日。上洛した源頼朝は六波羅の邸宅に入りました。時政の構えた邸宅とは別に、新たに邸宅が造営されていました。頼朝が鎌倉に戻ると、京都守護の一人である一条能保の子の高能が居住したといいます。

頼朝が死去してから数年経った1203年(建仁三年)、頼朝の邸宅跡は火事で燃えてしまい、時政以来の北条氏の居館が六波羅に残ったようです。

六波羅探題の成立

1221年(承久三年)。承久の乱で後鳥羽上皇側が敗れます。

【承久の乱】後鳥羽上皇ら京方と北条義時ら幕府の戦い
1219年(承久元年)1月27日、3代将軍実朝は、故2代将軍頼家の子公暁によって鶴岡八幡宮で暗殺されました。 後鳥羽上皇は、幕府のトップたる将軍実朝が暗殺されたのですから、将軍=鎌倉殿を失った御家人はさぞかし動揺し、幕府は混乱すると考...

鎌倉方として京都に攻め上がっていた北条泰時・時房は、六波羅に駐留して戦後処理にあたります。そこで、時政以来の居館が改築され六波羅探題の役所として使われることになりました。六波羅探題の成立です。

探題という言葉自体は鎌倉時代末期になって使われはじめ、当時は単に六波羅と呼ばれていたようです。

六波羅探題という語には色んな意味があります。京都における幕府機関を指す場合もありますし、六波羅の長官を指す場合もあります。また、所在地を表すこともあります。読者の皆様には適宜文脈から判断していただけましたら幸いです。

なお、幕府の将軍となる人物(摂家将軍・親王将軍)が京都から鎌倉に下向するときには、六波羅探題を経由するのが通例になりました。

六波羅探題北方・南方

六波羅探題となった泰時・時房の当初の任務は、鎌倉の北条義時の耳目となって京都とその周辺の動静を監視することでした。

六波羅探題は北方と南方がありました。江戸時代の北町奉行・南町奉行とも違います。

北条泰時と時房が六波羅の時政居館の北と南の館に入ったことがきっかけとなって、後に設置される六波羅探題(この場合は長官の意味)を北方・南方と称することになりました。機関の長官としての六波羅探題は、鎌倉幕府滅亡まで北条氏が独占することになります。

北方の泰時と南方の時房の関係は対等でしたが、1225年(嘉禄元年)、北条時氏が北方に、佐介流北条時盛が南方に就任するとこの対等の関係に変化が生じたようです。

この時、北方の時氏が六波羅探題の職務を主導する立場となりました。時氏は3代執権北条泰時の子で、早世しなければ得宗家を継承したはずの人物です。ですから、必然的に六波羅探題を主導していくことになったのでしょう。六波羅探題を主導する立場を執権探題といいます。執権探題とそうでない探題との間には、職掌(役割)上の差異があったと言われています。時氏以降は原則として北方が執権探題となっています。

北方の就任者は途切れることなく続きますが、南方は欠員が長期におよぶ(1242~1264の間は欠員)こともありました。この頃は、探題が必ず二人いなければならない訳ではなかったようです。

六波羅探題一覧

1277年(建治三年)、北条時村が北方に、そして佐介時国が南方に就任して以降、北方と南方の二人が存在するのが通例となったようです(一覧表では抜けているように見えますが、それは北方の人数とあわせるためなので大目に見てください)。

1297年(永仁五年)には、南方の大仏宗宣(おおらぎむねのぶ)が執権探題とります。以降は、北方か南方かに関わらず執権探題となることが可能になったようです。

六波羅探題の役割

鎌倉幕府の訴訟用語を解説した書物「沙汰未練書」には、六波羅探題の職務は「洛中警固」と「西国成敗」と書かれています。

洛中警固は京都周辺の治安の維持で、西国成敗は西国の訴訟を担当するという意味です。この西国はどこから西国としているかというと、尾張(のち三河)・加賀よりも西の地域となります。

六波羅探題の役割は、成立当初からのものとして京都周辺の動静の監視することでしたが、その後に京都周辺の治安の維持西国の訴訟が加わわることで、権限を強化しています。

次回は、六波羅探題の機能整備についてみてみましょう。

六波羅探題②・探題機能が整備されていく過程を見よう
六波羅探題。ろくはらたんだい。 響きが格好いいと思いませんか?格好いいと思うのは私だけでしょうか? その存在の大きさの割には、歴史の中で「しれっ」と出てくるだけの扱いに悲しさを感じていますので、当サイトはある程度、六波羅探題についてお話...

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