鎌倉時代は貨幣経済が発展した時代。なぜ銭が流通したのか解説。

鎌倉時代
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鎌倉時代は急速に銭(貨幣・お金)が流通するようなり、いわゆる貨幣経済が発達します。

鎌倉時代は、公家中心社会から武家中心社会へと大きく転換する時代ですが、経済も大きく転換するダイナミックな時代なのです。現代日本に続く貨幣経済の幕開けの時代といってもいいでしょう。

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貨幣経済とは

貨幣経済とは何か?と言われれば、『大辞林』によれば、「貨幣を財貨の交換および流通の手段とする経済様式」とあります。

しかし、難しく考えるまでもなく、現代の私たちが暮らす社会と同じです。モノを売ったり買ったりするときにお金を使うことです。

貨幣経済の反対は「自然経済=現物交換・物々交換」ですね。

どうして、鎌倉時代に貨幣経済が成長したのでしょうか?

きっかけは平清盛

きっかけは、平清盛が日宋貿易を始めたことによって、大量の宋銭(中国の宋でつくられたお金)が流入するようになったからです。

日本では963年(応和三年)以降、銭をつくっていません。皇朝十二銭とか言われていますが、それは昔のこと。畿内で一部流通したそうですが、貨幣経済の進展とまではいかなかったようです。

そのかわり、日本ではモノの価値をはかる尺度として、「銭」の替わりに絹・布が使用されていました。絹や布がお金のかわりだったわけです。

増加する宋銭・元銭

ここで、疑問が生じます。

なぜ、貨幣経済を引き起こすほどの宋銭が入ってきたのでしょうか?少なくとも、平清盛が「貨幣経済を起こしてやろう」なんてことを考えて宋銭の流入を増やしたりはしません。

実は、日宋貿易は輸出超過だったと考えられています。

日本は何を輸出し、何を輸入していたのでしょう?

輸入品

香薬類(じん香・白檀香・紫檀香・薫陸香・丁子香など)、鳥獣類(おうむ・クジャク・羊・水牛・犬・猫・馬など)、唐織物、竹木類(紫檀・白檀・甘竹・呉竹)、書籍類、紙、硯、墨、書画、茶碗、青磁・白磁、豹や虎の皮、茶

輸出品

砂金、銀、硫黄、水銀、木材(ヒノキや杉などの木材を角材や板に加工)、工芸品(螺鈿・蒔絵・屏風・大和絵・扇子・彫金・銅器など)、武器類

当時の日本は鉱物資源しか輸出できないようなイメージがあるかもしれませんが、そうではないことがわかると思います。

工芸品や武器類(刀や鎧)がこの時代からイケていたのです。鎌倉時代にもなると大陸で大ヒット。

そういうわけで、平家が滅亡したあとの鎌倉時代も、引き続き民間レベルで日宋貿易は続いていくことになります。

そして貿易が盛んになった結果、日本国内で貨幣が十分に行きわたるほどの宋銭が流入したのです。

あまりにも大ヒットするので輸出しまくったら、国内が宋銭だらけになったというわけです。

どのくらい日本に宋銭が入ったのかは史料にないのでわかりませんが、大国の宋が日本への銭の流出を禁止しなければならないレベルです。推して知るべしの世界ですね。

宋銭が大量に日本に流入してきても、誰も使わなければ何の役にも立たないのですが、鎌倉時代の人々は銭を利用することの便利さを知ったようです。

貨幣が使用される理由

ちなみに古今東西、貨幣が使用されるのは理由があります。それは「腐らない」からです。それだけではないのですが、大きな要因です。

経済学的には「価値の尺度」「価値の保存」「交換の手段」など、貨幣に関する条件がありますので、気になる方は「貨幣の条件」で検索をどうぞ。

腐らないことによって、いつまでも価値をはかり続けることができます。100円玉は、いつまでも100円だからこそ価値があるのです。明日に10円になったり、10年後に1円になったりしないわけです。

さらに、腐らないことによって蓄えることができます。魚や野菜を10年間蓄えるのは無理です。また、腐らないので遠い地方に持っていくことも可能になります。

このように、貨幣は便利なわけです。今なお、貨幣に変わる「何か」は生まれていません。電子マネーも貨幣です。

現代を生きる私たちはすでに貨幣経済に生きていますから、その便利さに気づきませんが、鎌倉時代の人々にとって革命的便利さだったのではないでしょうか?

現代でのインターネットの普及のくらいのインパクトでしょう。

貨幣流通を促した荘園制度

鎌倉時代に入っても、日本の経済の仕組みは荘園制度が主流です。荘園とは、簡単に言えば私有地のことです。

鎌倉時代は荘園制度をベースに物資や人が動いていました。

平安時代半ばの摂関政治以降、天皇家や摂関家(権門)、あるいは有力寺社に全国の土地が寄進されるようになり、権門や寺社の荘園が広がっていきます。

寄進すれば色んな恩恵を受けることができるので、人々は開墾した土地をせっせとエラい人達に寄進します。

寄進地系荘園の発達

寄進された側のエラい人達、つまり権門(天皇家・摂関家)は、全国にある膨大な荘園を管理するために、中小の貴族や侍、舎人・雑色・下人その他の多数の人たちをかかえて組織化します。

この様々な人たちと荘園をまとめて管理する家政機関を政所(三位以上の公卿の場合)・公文所といって、中小貴族が家司(けいし)としてその事務に当たりました。

中小貴族はその見返りとして、権門からの推薦によって官位を与えられ、あるいは国司になったり、荘官として荘園の直接支配を行ったりします。

寺社の場合は、貴族のような家政支配ではありませんので、貴族のシステムとは異なりますが、荘園の管理の仕方としては大きく異なりません。

このように、全国にある膨大な荘園を支配する権門・寺社が京都・奈良などに集まっていた結果、全国の年貢・雑物、人が京都・奈良に集まるようになりました。

宋銭はこのルートにのって京都・奈良と地方の間を流通するようになり全国に広がっていったのです。

この荘園制度がなければ、貨幣経済は発展しなかったかもしれません。

貨幣経済によって発展した商工業

物や人が集まり、貨幣経済が進展してきたことで、さらに京都や奈良は発展します。

京都では、すでに平安末期から鎌倉初期には商人が多数住んでいて、町通り(現在の新町通:堀川通と烏丸通の間)は商売でにぎわい、商人の座が発生し、銭をたくわえた富裕者がいました。

※町通り(新町通り)は、祇園祭の山鉾がたくさん立ち並ぶ通りです。鎌倉時代から商人の通りだったわけですね。

銭をたくわえた富裕者、つまり「金持ち」のことを、この時代の人は「有徳人(うとくにん)」と呼びました。

彼らは京都を中心に、主要な交通・流通網、港、問丸(現在の運輸・倉庫業者)を経て地方経済とつながっていきます。当然、地方にも有徳人があらわれ、彼らはますます商業活動を活発化させていきます。

銭の流通によって、京都・奈良-地域間の交流がますます広がっていきます。

今まで地域内で消費されていた塩・材木・薪炭・栗・大豆など各地の特産品が、京都・奈良や地方に運ばれるようになります。また、地方から地方に運ばれていきした。

農民たちは、さらに「銭」を得ようと特産品の生産に力をいれていったので、ますます商工業が発展していくのです。

源頼朝が打ち立てた武家による新秩序「鎌倉幕府」は、貨幣経済という新たな変化の波に対応できずに、瓦解していくことになるのでした。

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鎌倉時代鎌倉幕府
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