初期鎌倉幕府と荘園の関わり~地頭制の成立についても解説

鎌倉時代
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荘園領主と言えば、王家・摂関家・寺社を連想しますが、鎌倉時代は武家政権「鎌倉幕府」こそが最大の荘園領主です。イマイチ、ピンとこないと思いますが、そういうことです。

院政期には、立荘という手続きを経て荘園が創出されていきましたが、鎌倉幕府は立荘という手続きを経ていません。ここが、荘園領主のイメージからかけ離れてしまうのですが・・・。

今回は、鎌倉幕府が成立した頃の荘園制についてお話しましょう。鎌倉幕府の土地支配を理解することは、その後の武家政治の理解の手助けとなるにちがいありません。

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治承・寿永の乱と在地社会

「治承・寿永の乱」と言えば、1180年(治承四年)5月の以仁王の挙兵に始まって、1185年(元暦元年)3月の平家滅亡に終わる全国的な内乱ことです。時には、奥州藤原氏の滅亡までを指したりしますが、おおよそ「あの辺り」の時代です。

あの辺りとは、いわゆる「源平合戦」の頃のことですが、この戦いは別に源氏と平家だけの戦いではありません。

源氏のみならず、平家に反感を持つ寺社勢力を初めとする色んな勢力が立ち上がっているのです。

源氏対平家という単純なものではないのです。

寺社勢力だけでなく、地域社会の代表者的存在だった「在地領主」も平家に反旗を翻します。在地領主は、荘園領主から荘園の管理を任されている荘官のことで、下司・公文・田所などと呼ばれていました。

『平家物語』には、「在地領主は、国司や預所という朝廷や貴族から派遣された役人にムカついて反乱を起こした(意訳)」とありますが、そうではありません。

地域社会での在地領主間の競合関係が、治承・寿永の内乱に持ち込まれて全国に拡大していったのです。たとえば、頼朝の挙兵時、伊豆国では大庭氏・伊東氏と土肥氏・北条氏は源平合戦以前から競合関係にあって、その関係が源平合戦に持ち込まれています。

本領安堵と敵方所領没収

現代に生きる私たちにとって、頼朝の「平家打倒の挙兵」と聞くと、何か英雄的なものを感じますが、当時の頼朝勢力は単なる反乱勢力です。意外ですがそうなのです。

ただ面白いのは、反乱勢力にも関わらず、頼朝は挙兵当時から本領安堵と新恩給与というかたちで荘園支配に関与していることです。

本領安堵

本領安堵は、御家人が持つ所領を保証することです。それは、荘園領主から荘園の支配を任されている御家人の身分(下司・公文・田所など)を頼朝(鎌倉殿)が守ることを意味していました。

この「本領安堵」は、鎌倉殿の「御恩」でもあります。

現代的に言えば、荘園領主が「社長」ならば、御家人は「従業員」。頼朝(鎌倉幕府)は「労働組合」みたいなものでしょうか。従業員が不当に解雇されたら、組合は社長に抗議したりするということです。

こうして、頼朝は、既存の「荘園領主-荘官」という関係を崩すことなく、御家人の保護という立場から荘園支配に関わったのです。

新恩給与

「本領安堵」以上に画期的だったのは、頼朝が敵方所領を占領・没収し、御家人に「新恩給与」として与えたということです。この新恩給与は、「地頭職」任命という形でおこなわれました。

これも、鎌倉殿の「御恩」です。

 

 

鎌倉勢の戦線拡大にともなって敵方所領の没収は増加しますが、この戦いは在地領主が、自らの敵対者に独自にとった軍事行動(私戦)を追認する意味合いをもっていました。

たとえば、平家方の源貞弘と敵対関係にあった石川義兼は、貞弘の死後その所領だった河内国長野荘・天野谷を没収し、のちに地頭職に補任されています。

このように、頼朝による敵方所領没収は、治承・寿永の乱以前から続く在地領主間の敵対関係に決着をつける性格をもっていました。

敵方所領没収によって地頭職が生まれ、それが制度化され定着していきますが、この過程は反乱軍として出発した頼朝の権力が、朝廷を中心とする国家体制に組み込まれていくことを意味しています。

寿永二年十月宣旨

1183年(寿永二年)、寿永二年十月宣旨(朝廷の命令文書)が発布されます。

この宣旨は、東国(東海・東山道)の所領の回復(具体的には京都の荘園領主への年貢納入の再開)を頼朝に命じる代わりに、頼朝に東国の荘園・国衙領の行政権を承認したものです。これによって、頼朝は東国支配を朝廷から認められたのです。頼朝が朝廷を中心とする国家体制に組み込まれた瞬間です。

また、頼朝が行った敵方所領没収について、謀叛人所領の「没官(もっかん:没収)」として朝廷から追認されました。

本来「没官」とは「律」に基づいた国家的刑罰で、その執行と没官地の配分は本来は朝廷が行うものでした。

ということは、頼朝は勝手に既存の没官刑を執行して敵方没収地を配下の御家人に配分し、地頭として任命していたということになります。

それができたのも、頼朝が反乱勢力として出発したからです。反乱者頼朝は、朝廷のルールを気にすることなく独自路線を歩めたのです。

諸国の地頭職設置は、1185年(文治元年)の「文治勅許」によって、守護の設置とともに認められたといわれます。しかし、実際には地頭制は、治承・寿永の内乱の過程で生み出されていて、文治元年以前にすでに成立していたと考えられています。

この考え方は、鎌倉幕府の成立時期に関する説の論拠となっているので、興味ある方はこちらの記事をどうそ。

 

文治二年十月太政官符

こんな感じで地頭制が成立したのですが、国の制度としての位置づけを得るのが、1186年(文治二年)10月8日の太政官符(正式な太政官の命令文書)です。

これは、地頭職の得分(収益・儲け)や権利を謀叛人が保有していたもの(謀叛人跡)に限定し、それ以外から徴収することを禁止しました。つまり、謀叛人跡以外への地頭職設置を制限するものです。

これによって、頼朝が設置した地頭制が公認される代わりに、荘園制(具体的には京の荘園領主に年貢を納入するシステム)の維持が幕府に求められるようになったのです。

もっと、くだけて言うと、「鎌倉が勝手に謀叛人の土地を没収して地頭を置いたことは認めてやるから、従来の荘園には手を出すな!」です。

幕府は、王家・摂関家・寺社の荘園に関わらないことと引き換えに地頭制を維持し続けることができたのです。

 

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