院政期の荘園の特徴と現地~預所・荘官(下司・公文・田所)を解説

荘園
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荘園シリーズ。今回は、いよいよ「荘園中の荘園」「King of 荘園」である「中世荘園」についてです。時代的には院政時代から鎌倉時代半ばとなります。

中世荘園ができるまでのお話しはこちらの記事をどうぞ。

 

 

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中世荘園の形態

11世紀末に白河法皇による院政が始まると、王家(院・天皇・女院)・摂関家によって多くの荘園がつくられていきます。このことを立荘とよびます。

なぜ、王家・摂関家によって立荘されたのか?というと、院・天皇・女院・摂関家という限られた中央権力者しか立荘を命じることができなかったからです。

この立荘は、12世紀前半の鳥羽法皇の院政期をピークとして、おおよそ13世紀前半頃(鎌倉時代半ば)まで行われました。

この間に立荘された荘園は、一郡におよぶ広大な領域をもつなど、摂関期に多くを占めた「国免荘(国司の権限で租税官物や臨時雑役が免除された荘園)」や「雑役免荘園(臨時雑役が免除された荘園)」とは大きく異なる形態と性格になり、その数も膨大なものとなります。

 

 

院政期に形成された荘園は、大きく分けて摂関家領・王家(皇室)領・寺社領に大別されます。

なかでも、御願寺領をはじめとする王家領荘園の立荘が多くを占めます。御願寺とは、六勝寺(法勝寺・尊勝寺・円勝寺・最勝寺・成勝寺・延勝寺)や安楽寿院、長講堂といった天皇や上皇、法皇勅願の寺院のことです。

御願寺領荘園の多くは、女院の管理下におかれて女院領荘園群として編成されていきます。

なぜ、女院の管轄下に置かれていったのかというと、女院は政治情勢に左右されない安定的な身分だったからです。保元の乱や平治の乱に見られるように、天皇といえどもその身分は安泰ではありません。そこで、女院に白羽の矢が立ったのです。

後白河法皇の御願寺長講堂には、1191年(建久二年)頃には約90ヶ所におよぶ所領がありましたが、長講堂と長講堂領は後白河法皇の皇女宣陽門院に譲られて、宣陽門院によって管理されることになります。

また、鳥羽法皇の皇女八条院は、安楽寿院領を父鳥羽法皇から、歓喜光院領を母美福門院から譲られ、さらに自らの御願寺蓮華心院の荘園を管理するなどして八条院領荘園群を構成しました。

また、摂関家と深く関わる持仏堂領(勧学院・法成寺・平等院領)などで構成された摂関家領荘園も院政期を通じて再編されて、中世の摂関家領荘園群の枠組みが形成されます。

摂関期までに「雑役免荘園」などを保持していた寺社も、不輸の認定を受けたり、新たな荘園の獲得によって、荘園群が再編されていきました。

このように、王家・摂関家・寺社それぞれの荘園群が定まって、それぞれの荘園を基盤とする体制をとるようになっていきます。

中世荘園の現地経営

一方、立荘によって領域的な荘園が形成されていくと、荘園現地の地域社会も大きく変化していくことになります。

立荘が社会的なブームになってくると、中央にネットワークをもつ中下級貴族や京都に拠点をもっていた武士層(京武者)たちは、積極的に自身の私領を寄進し、王家や摂関家の荘園認定を得ようとしました。そして、私領の荘園化に成功すると、中下級貴族や京武者は「預所」や「荘官」といった荘園経営を担うポストに就きます。

預所は、荘園領主と荘園現地を行き来して荘園領主の利害を担います。年貢の収納などの責任を負う代わりに、給免田(荘園領主から支給された免田)などが与えられました。

荘官は、下司・公文・田所・惣追捕使などの総称です。荘官という呼称は12世紀以降に多用されるようになります。

下司は、現地の有力者が任命されました。「下司」の呼称は、「預所」が「上司」と呼ばれたのに対応したものと言われています。下司は荘園経営に携わりながら、給免田などの自身の所領を保有し、農民を統括する存在でした。このように荘園制度に基づく現地の領主を「在地領主」と呼びます。

公文は、文書の作成や管理に携わり、時には田畠の検注(土地調査)を行いました。

田所は、公文と同様の役割を担ったと考えられ、年貢の散用状(収支決算書)を作成・送付するなどの役割を果たしました。

惣追捕使は、警察権を担いました。少し時代が下がって鎌倉時代になると、惣追捕使=守護として登場します。

荘園の住人

11世紀後半から12世紀にかけて、荘園内の居住者を意味する「住人」という語が史料上に多く見られるようになります。これは、11世紀半ば以降の領域的な「雑役免荘園」や、11世紀末以降の立荘の展開によって村落を含み込む荘園領域が形成されていったからです。

したがって、住人を伴う荘園支配こそ中世荘園の特徴といえるのです。

この「住人」は、国司との役の負担をめぐる相論(訴訟)や、他領との所領の帰属をめぐる境相論で、訴えを起こす側の人々として史料に登場します。つまり、「モノ言う住人」だったわけです。

荘園内の「住人」は、荘園領主が「住人」の権利を守ることを当然の責務と考えていて、この責務が果たされない場合「御荘住人等、東西南北逃散已におわんぬ」と記されるように、住人は土地を捨てて逃亡してしまうのです。

13世紀に入ると、「住人」は「御荘百姓」と自称するようになります。

院政期に行われた立荘によって、地域社会には荘園の住人が成立し、また荘園支配を現地で担う荘官が編成されるなど、地域社会が荘園形成に対応する形で再編成されたのでした。

むすび

この時期に形成された荘園が中世を通じて存続していくことになります。

鎌倉幕府が成立すると、軍役の負担が義務づけられる「武家領」という土地区分が出現しました。武家領は、戦争において敵方の所領を没収してそこに地頭を補任するという治承・寿永の乱時のありあたが重要な起点となり、確立していきます。

武家領が確立すると、武家領とそれ以外の「本所一円地」という土地区分が出現し、武家領・本所一円地が、荘園・公領と並ぶ中世の土地区分となるのです。

 

参考文献

荘園史研究会『荘園史研究ハンドブック』東京堂出版。

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