足利尊氏・直義兄弟の二頭政治体制を解説

足利尊氏の時代
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「尊氏に道心を与え給うて、後世を助け給え。今生の果報を直義に与え給うて、直義の身を安穏に守り給え」

これは、1336年(建武三年)8月17日、光明天皇を即位させた2日後に、尊氏自らしたためて清水寺に奉納した願文です。

尊氏は、光明天皇の即位をもって直義に政治を譲り、隠遁するつもりだったようです。しかし、後醍醐天皇が吉野に赴き南北朝時代が始まったことで、その願いは叶いませんでした。

 

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二頭政治

1336年(建武三年)11月7日、建武式目が制定されて室町幕府はスタートします。

初期室町幕府は、尊氏と直義が車の両輪のように政務を分担しながら運営していく、二頭政治というべき体制でした。

実際に、文書もこの2人から発給され、当時の人々は「両将軍(尊氏を将軍、直義を副将軍)」と認識していたようです。

初期室町幕府では、尊氏は恩賞の授与や守護職の補任など、武士に対する主従制的な支配権を掌握し、直義は民事裁判権を基礎とした一般的な行政権、統治権的な支配権を掌握したといわれています。

なぜ、彼らが二頭政治を始めたのか?という点については諸説あります。説の紹介は、いずれまたの機会にするとして、尊氏と直義による二頭政治が、結果として全国を巻き込む「兄弟喧嘩」のもとになります。

幕府における二頭政治そのものは、この初期室町幕府が初めてではありません。

前代の鎌倉幕府も二頭政治でした。そういう意味でも、初期室町幕府は鎌倉幕府の形態を引き継いでると言えるでしょう。

鎌倉幕府では、北条氏の執権政治が確立すると、武家の棟梁たる将軍と幕政の長たる執権が並び立ち、度々衝突します。

特に、摂家将軍九条頼経、皇族将軍宗尊親王と執権北条氏は、北条一族・御家人を巻き込んで激しく対立しました。

 

 

一般的に、鎌倉幕府は執権北条氏が実権を握って、将軍はお飾りになったと言われますが、実際はそうではありません。そうなるのは時宗以降です。

二頭政治は、その分業がうまくいっているうちはお互いが協力・けん制しながら公正な政治を行うことを可能とします(鎌倉幕府にうまくいった時期があるとするならば、将軍惟康親王と執権北条時宗の時代くらいでしょうか?それも怪しいですが…)。

しかし、もし両者が対立したり、どちらかが優位に立とうとすると、その対立は様々な利害関係者を巻き込みながら拡大し、深刻化していきます。

初期室町幕府も、鎌倉幕府と同様、あるいはそれ以上に激しい対立が生じることになります。

二頭政治の幕府機関

尊氏・直義の二頭政治のもとでどのような制度が成立していたのか見ておきましょう。

幕府の機関となる中央機関として設置されたのが、尊氏の管轄下にあった侍所・政所と、直義の管轄下にあった引付方・安堵方・禅律方・庭中方・問注所方です。

尊氏・直義二頭体制

尊氏管轄機関

侍所は、鎌倉幕府においても設置されていて、御家人の統制機関として発足し、後に刑事裁判を扱うようになった機関です。

室町幕府の場合も、基本的には同じ役割を担っていました。洛中で刑事事件についての訴訟があった際は、それを受理し、犯人を捕らえ、犯罪事実を調査し、財産の差し押さえ・没収などを行っていました。

また南北朝初期には、御家人の戦功認定も侍所が行っていますが、後にこの職は「恩賞方」として独立します。

侍所の初代頭人(長官)は高師泰で、以後一族の南宗継が就任しました。

侍所から独立して設置された「恩賞方」の初代長官は高師直です。

このように、御家人の統制や恩賞などの将軍と御家人との「主従関係」に関わる職は、尊氏-高兄弟ラインが管轄していました。

政所は、足利将軍家の家政機関で、主として家領支配などの財政に関する職務を行いました。最初の執事は二階堂行朝(行珍)で、鎌倉幕府においても政所執事を務めた人物です。政所は、後には雑務沙汰(民事訴訟)に関する訴訟を扱うようになりました。

直義管轄機関

統治権的支配権を掌握する直義の直轄機関には、評定が設置されました。

評定は、鎌倉幕府の執権・連署が主催した最高意思決定機関で、直義の評定はそれを継承したものです。

評定の下には、裁判に関するいくつかの部局が存在していました。その中心に位置する機関が引付方であり、所領関係の訴訟を取り扱いました。

引付も鎌倉幕府においても設置されていて、幕府裁判で大きな役割を果たしていました。室町幕府においても、その基本的な機構と訴訟手続きは継承されています。

引付は、足利氏一門および被官の有力者、外様の武将、鎌倉幕府の評定衆・引付衆経験者や奉行人層から構成され、鎌倉幕府同様の五番体制をとっていました。

頭人には、高師直・細川和氏・上杉朝貞などが担いました。1344年(康永三年・興国五年)に五番引付方の頭人・職員の再編成が行われ、三方制の内談方が並置され、所領に関する訴訟を取り扱うことになり、制度の強化がはかられます。

それ以外の諸機関は、訴訟に関するそれぞれの特化した案件を扱いました。

安堵方は、所領安堵の申請についての案件を扱いました。「本領安堵」は、将軍と御家人との主従関係を再確認する意味合いがあり、「新恩給与」とともに重要な権限です。この安堵については、直義の権限となっていました。

初代の頭人は二階堂行朝(行珍)で、以下摂津親秀らの直義に近い人物が就任しています。

禅律方は、禅宗・律宗の寺院の僧侶が関する訴訟について扱う部局で、その頭人には建武式目作成に関わった儒学者の日野藤範の子有範が就任し、直義没落までその地位にありました。

庭中方は、訴訟手続きの過誤についての救済機関です。

問注所は、鎌倉幕府の初期には大きな役割を持っていましたが、室町幕府では多様な訴訟機関の設置によりその権限は縮小され、主に訴訟記録の管理についての業務を行うようになりました。

以上のように、尊氏と直義の権限に対応する形で、初期室町幕府の諸機関は構成されていました。

 

守護・国大将並置制度による地方統治

1336年(建武三年・延元元年)2月、足利尊氏が京都から九州に落ちる際に、尊氏は播磨国室津(兵庫県たつの市)において中国地方における諸将の配置を行います(室津軍議)。

その際、主に行政統治を担当する守護と軍事を担当する国大将を並置するという方策を取りました。そして、その守護と国大将には、足利一門が重用されるとともに、外様の有力武士を組み合わせて運用されました。

播磨(兵庫県)…守護赤松円心-大将石堂頼房(足利一門)

備前(岡山県)…守護松田盛朝-大将石橋和義(足利一門)

安芸(広島県)…守護武田信武-大将桃井義盛(足利一門)

周防(山口県)…守護大内長弘-大将大島義政(足利一門)

長門(山口県)…守護厚東武実-大将斯波高経(足利一門)

このように、地域の有力武士を守護にすることで、地域勢力を味方につけながら円滑に地方行政をすすめ、足利一門を国大将とすることで守護の動向を監視させ、軍事面を掌握させるという政策でした。

この中国地方で実施された地方支配策が、九州から西上する足利軍に勝利をもたらしたといえます。そして、この地方の軍事的な施策が、室町幕府の守護体制の原型となりました。

守護・国大将の統合と守護権限の拡大

室町幕府が成立すると、国大将と守護の権限が統合され、守護が軍事動員権と行政を掌握するようになります。

守護の権限は、鎌倉時代には「大犯三箇条」とされるもので、それは謀叛人殺害人という重犯罪人に対する警察権と大番催促という国内の御家人の動員権でした。室町期になるとそれ以外にも守護の権限は拡大されていきます。

警察権の拡大

まず、検断権(警察権)が拡大されます。

その結果、苅田狼藉への対応が守護の管轄となりました。苅田狼藉は、他人が支配している土地を自分のものであると主張するために作物を刈り取る行為をいいます。

鎌倉前期には所務沙汰(民事管轄)でしたが、鎌倉末期から検断沙汰として刑事事件として扱われるようになりました。

さらに、南北朝時代には苅田狼藉は重大犯罪事件とされ、守護が検挙して処断することになります。

また同時に窃盗人・放火犯や山賊・海賊などの取り締まりについても守護の職権となりました。守護に、地域の私戦を抑止・禁止する役割が与えられたのです。

軍事動員権の拡大

鎌倉時代の守護が動員できるのは「御家人」に限られていました。しかし、南北朝期になると各荘園の荘官も守護により動員されることになります。

また、荘民には築城のための人夫役や陣夫役等も賦課され、武士を軍事動員する際には、兵粮米を獲得するための兵粮料所が臨時に設置されました。この兵粮料所は幕府の命令により設置され、守護から武士に給付されます。

守護は、この権限を利用して国内武士を従えていくのです。さらに戦争を通じて、敵方の所領として没収した土地を処分し、武士に給付する権限も守護に与えられるようになりました。

幕府の命令伝達・執行権限の獲得

初期室町幕府の裁判は直義を中心として行われましたが、そこでの判決や命令を実際に現地に伝達し執行する(遵行)者が必要になります。

鎌倉時代には、そのために近隣の武士が二人(両使)使節として派遣されていましたが、室町時代になると両使だけでなく守護も遵行に関わるようになりました。

具体的には、守護の下で守護代が実際の現地への遵行を行いました。そして、しだいに両使に代わってこの「守護-守護代」による遵行が基本の形となります。

行政権の拡大

古代に成立した国ごとの行政庁である国衙は、鎌倉時代においても国内行政で一定の役割を果たしていました。守護は国衙機構を掌握することによって、実質的に国衙領の支配を進めることができるようになりました。

わずかの期間ですが、建武政権では国司の権限を拡大させる後醍醐天皇の方針から、守護は国司の下に置かれ、多くの権限が奪われていました。

 

国衙機構の支配とともに、鎌倉後期に成立した一国内の田数を書き上げた大田文に基づいて、国内に田一反ごとの税である「段銭」を賦課することができるようになり財政面も強化されていきます。

このように室町時代の守護は鎌倉時代の守護と比較して、その軍事指揮権や行政権は飛躍的に拡大していきました。そして、守護は守護大名として成長していくことが可能となったのです。

 

参考文献

佐藤進一『日本の歴史9~南北朝の動乱』中公文庫。

小林一岳『日本中世の歴史4~元寇と南北朝の動乱』吉川弘文館。

亀田俊和『観応の擾乱』中公新書。

亀田俊和編『初期室町幕府研究の最前線』洋泉社。

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