後醍醐の国司制度改革と報われない御家人たち

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1333年(元弘三年)6月に始まった後醍醐天皇の親政は、六波羅探題の後継であるかのように京都での勢力を拡大し、諸国の武士たちの不満の代弁者となった足利高氏の軍事的圧力によって、わずか2ヶ月で軌道修正を迫られました。

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国司制度の改革

親政早々、後醍醐天皇はつまづきましたが、そんなことで情熱を失うような天皇ではありません。

簡単に情熱を失うような天皇ではなかったからこそ、鎌倉幕府を滅ぼすことが出来たわけです。

で、後醍醐天皇が理想とする政治は、国政の全権を天皇に集中させることにありました。

天皇による中央集権的な親政を地方に行き届かせるためには、地方支配の要になる国司制度を有効活用しなければならなかったのですが、この国司制度がボロボロになっていたのです。

国司制度は、飛鳥~奈良時代から本格的に始まった制度ですが、紆余曲折を経て後醍醐天皇の時代にはその姿は大きく変わっていました。

知行国制

本来、国司は中央から派遣される地方行政官で、地方制度の重要な役割を果たす官職でしたが、朝廷の中での国司の地位は高くありませんでした。

しかし、「実入り」が多かったので、「国司は儲かる」という風潮が生まれ、「ある意味」国司は人気の役職となります。

知行国などの変則的な制度が生まれたのも、このような国司から上がってくる収益を目当てにしたからです。

知行国制は、上級貴族や皇族が自分たちの子弟や近臣などを国司に推薦して派遣し、自分たちは知行国主として京都にいながら、国司から送られてくる収益を獲得するという仕組みです。

国司の地位は「うまみ」が多かったことから、上級貴族や皇族は自分たちが推薦した人物を国司として派遣し、その国司から送られてくる収益を獲得していました。

知行国を代々独占する家

上皇や寺院も知行国の配分にあずかるようになりますが、中院家(なかのいん)や西園寺家(さいおんじ)にように特定の国を、世代を超えて長期間にわたって独占知行する者もあらわれました。

中院家は、鎌倉時代の150年間、5代にわたって上野国知行を独占し、西園寺家は伊予国知行を4代にわたって独占します。

知行国をまるで家領のように世代を超えて相続する家もありました。

国司の衰退

荘園制が発達して国司の権限が制限されてくると、国司が直接支配して収益を生み出す地域、つまり国有地(国衙領)が減少します。

さらに、鎌倉幕府の配置した守護によって、国司の権限がさらに制限されていきました。

国司から入ってくる収益が減ってくると、知行国主はその収益全てを自分のものにするようになります。本来、朝廷に入るべき収益を自分のものにしてしまったのです。ですから、朝廷の税収は減っていくことになります。

私的な収益を得るための制度になってしまった国司制度を改革して、かつての地方行政機関に戻さなければならないと後醍醐天皇は考えました。

国司制度改革

国司制度改革は、1333年(元弘三年)8月5日に始まる国司任命人事で実行されました。鎌倉幕府が滅亡してから3ヶ月も経っていません。

中院家の上野国、西園寺家の伊予国、持明院統の播磨国など代々独占してきた知行国は取り上げられて、親政政権から新しい国司が任命されます。

当然、中院家や西園寺家は猛反発しました。彼らの側からすれば、「知行国召し上げ」はいわれのない家領没収であり、後醍醐天皇の強権発動・暴政と映ったようです。そして、彼らもまた親政への批判を強めていくのでした。

もともと北条氏と親しかった西園寺家にいたっては、得宗北条高時の弟泰家をかくまったりするなど、打倒新政権的な動きを行うようになります。

国司の改革によって、貴族の中にも親政に不満をもつ者があらわれます。不満を持ったのは武士だけではないのでした。

高氏の武蔵守就任

しかし、国司制度の改革でも後醍醐の構想通りにうまくいったわけではありません。

後醍醐天皇は、知行国制度そのものを全廃するにはいたりませんでした。

逆に、例えば新田義貞には上野国・越後国・播磨国を知行国として与えています。上野国は中院家、播磨国は持明院統が知行国主だったところです。

後醍醐天皇は知行国制を無くすことはできませんでしたが、親北条氏勢力の知行国を奪い、親後醍醐派に知行国を与えました。

また、後醍醐天皇に従順でない、いわゆる抵抗勢力に対して譲歩せざるを得ない局面がありました。その勢力とは足利高氏です。

8月5日、足利高氏は武蔵守に任命されます。

7月に高氏は武蔵国守護に任命されていますので、この武蔵守の任官によって武蔵国の国司と守護を兼ねるようになりました。

高氏は完全に武蔵国を掌握することになったのです。

後醍醐天皇の国司改革は、当初の目的を達することはできませんでしたが、一応成功したと言えます。

「なぜなら、特に若狭・丹波・播磨・河内など、京都の周囲を固める要地に、後醍醐天皇の側近らを配置して、政権の足場を築くことができたからです。」

足利尊氏

足利高氏の「高」の字は、得宗北条高時の一字「高」を拝領したものです。足利氏の歴代当主は、得宗北条家当主の「一字」と足利氏の通字「氏」を組み合わせて名乗っていました

その「高」の字を捨てて、後醍醐天皇の名「尊治」の一字を拝領し「尊氏」と改名したのは、武蔵守任命と同日の8月5日のことです。

後醍醐天皇が自身の一字「尊」を足利高氏に与えたことは、何かと「反抗的」な尊氏をなんとかして取り込みたいという後醍醐天皇の思いのあらわれでしょう。

守護政策

守護弱体化政策

後醍醐天皇の国司制度の改革が進むと、問題になるのは守護制度です。

なぜなら、守護制度は鎌倉幕府・武家政治の産物で、国司の権限を制限し弱める力をもっていたからです。

国司制度を律令国家の昔に戻そうとするならば、守護の存続は許されないはずですし、そもそも守護制度の「親玉」である鎌倉幕府は滅亡しているのです。

にもかかわらず、足利尊氏や岩松経家はすでに守護に任命されています。その他の武士も守護に選ばれています。

なぜ、後醍醐天皇は守護を残したのでしょうか。

守護の勢力が強く、急には廃止できなかったので、やむをえず守護制度を存続させたからと考えられています。他には守護と国司をお互いけん制させようとしたと考える説もあります。

「いずれにせよ、後醍醐天皇は守護の機能を残しながらその権限を弱め、逆に国司の権限を強めていく政策を行います。」

後醍醐天皇は、犯罪人の捜索・検挙や犯罪人の所領・財産の没収手続きは守護の職権で、守護が没収した所領・財産などの処分は国司の職権としました。

「国司の下に守護が置かれる形になりました。」

さらに、地頭・御家人に対して命令を下すのは国司の役割で、地頭からの訴えも国司が受け取ることになりました。

本来、地頭や御家人は守護の指揮権のもとにありましたから、その指揮権が国司に奪われる形になったのです。

守護は地頭や御家人の指揮権を国司に奪われ、治安維持のために力を行使するだけの職務になってしまったのでした。

国司の身分と守護の身分

国司と守護の出身層ですが、国司は足利尊氏・楠木正成・名和長年などごく少数の武士を除いて大半が貴族です。それに対して守護の方はほとんど全部が武士でした。

大半の国々では、国司は貴族、守護は武士ということになります。

当時の貴族の社会的地位は、武士よりはるかに高かいものでした。

その貴族出身の国司が守護より強大な権限をもち、従来は守護の指揮命令の下にあった国内の地頭・御家人も支配するようになったのです。

かつて、頼朝が御家人たちを貴族の支配から解放してきましたが、再び武士、特に旧幕府の守護・地頭・御家人が貴族の支配下に置かれ、「こき使われる」状況が作り出されたのです。

御家人廃止

そして、かれら地頭・御家人に衝撃を与えたのは御家人制度の廃止でした。

御家人というのは鎌倉殿に直属する武士に与えられた称号で、御家人は順番に上京して交替で勤務する京都大番役・篝屋番役などを負担しなければならない反面、本領安堵や新恩給与など鎌倉殿から様々な恩恵を与えられていました。

 

 

つまり御家人という称号は、鎌倉幕府の直属家臣のもつ特権身分の標識だったのです。

後醍醐天皇の構想からすれば、幕府を廃止した以上、それを前提とする特権身分があってはなりません。全ての武士は一律に天皇の直接支配に属するべきと考えたのでしょう。

廃止時期は明らかではありませんが、国司制度改革と同じ1333年(元弘三年)の夏から秋にかけてと推測されています。

御家人の廃止にともなって、御家人だけが負担した京都大番役・篝屋番役は非御家人と呼ばれていた荘官・名主らにも課せられることになりました。

鎌倉殿を失った御家人たちは、父祖代々の身分「御家人」を失って非御家人と同列になり、貴族出身の国司またはその目代(代官)の指揮下に入りました。

元御家人たちが、鎌倉幕府の昔を慕って親政に反発するようになるのは道理で、彼らはますます足利尊氏を武家の棟梁として慕うようになります。

参考文献

佐藤進一『日本の歴史9~南北朝の動乱』中公文庫。

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