建武の新政・後醍醐天皇の主な政策

建武の新政
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因幡国(鳥取県西部)船上山(せんじょうさん)を下山した後醍醐天皇は、途中で赤松則村や楠木正成の出迎えを受けながら、6月4日に京都へ帰還しました。

光厳天皇は皇位を廃され、光厳が立てた皇太子である康仁やすひと親王も廃されました。

そして、新しい政治の中心機関として記録所が設けられます。「朕ガ新儀ハ未来ノ先例タルベシ」(『梅松論』)という宣言に象徴される、建武の親政が始まったのでした。

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建武の新政

後醍醐天皇は、持明院統も含む天皇家領・公家領・寺社領の安堵を行うとともに、戦後処理の一環として、15日に所領の処理をめぐる命令をだしました(六月口宣案:くぜんあん)。

最近凶悪の輩が合戦を理由として土地を押領するため、人々は苦しんでいる。もうすでに戦争は終わっている。これから以後は、綸旨を帯びていないものについては、土地の押領(おしりょう)は禁止する。もし、この命令に違反するものがいたならば、国司と守護は命令を待たず、即時にその身を召し捕らえよ。

現在、所有している土地は認めるけれども、争いが発生したときは綸旨があるほうが勝ちという内容の法令です。

したがって、綸旨のない土地支配は押領(実力で他人の領地・年貢を奪う行為)とされる可能性が出てきたのでした。

ところが、早くも翌月には六月口宣案の修正令ともいえる法が発布されました(七月宣旨)。

「いちいち綸旨の発給はわずらわしく、また諸国の人々の訴えがあまりにも多いので、北条氏に味方した朝敵以外の者については、現在当知行している所領をそのまま安堵する」というものでした。

六月口宣案によって、土地の所有者は没収を恐れたため、我も我もと綸旨の発給を求めて新政権に殺到したからでした。

後醍醐の綸旨万能と武士たちの不満

結局、後醍醐天皇方について戦った人々の所領は綸旨を帯びていなくても安堵されることになります。

雑訴決断所

所領問題の解決のためには、裁判制度の整備が必要です。

鎌倉後期の公武共同による徳政でも裁判制度の整備が重視されましたが、後醍醐政権も重視しました。

後醍醐天皇の親政は、鎌倉後期の公武徳政の延長線上にある「徳政」という性格をもっていたのです。

しかし、その徳政は倒幕の戦いだった元弘の乱直後だったので、徳政政策の舵取りを一歩間違えれば、即時に新しい戦争が開始される緊張感に満ちあふれた状況でのものでした。

後醍醐天皇の裁判所として新設されたものが雑訴決断所で、1333年(元弘三年)の9月までには設立されていたと見られています。

記録所と恩賞方~「高氏なし」の親政政権

はじめは四番編成、約70人で構成されていましたが、翌年には八番編成、構成員約100人に拡大されました。一番は畿内・東海道、二番は東山道・北陸道、三番は山陰・山陽道、四番は南海道・西海道という形で、各番はそれぞれ地域を分担して担当しました(翌年に畿内と七道がそれぞれ独立)。

番の頭人には公卿(上級公家)が就任し、その下に実務を行う中下級貴族が任命され、また、二階堂・飯尾・太田氏らの旧幕府・旧六波羅探題の官僚も含まれていて、公武の裁判制度を合わせたような性格をもっていました。

さらに、楠木正成や名和長年、足利尊氏家臣の高師泰・師直兄弟も参加していたことから、まさに「モルル人ナキ決断所」(二条河原落書)という人員構成だったのです。

記録所と雑訴決断所は、どちらも裁判を扱っていましたが、記録所が有力寺社の訴訟を扱うのに対して、雑訴決断所は主に武士からの訴えを扱っていたと見られています。

訴訟については、決断所で評議され、判決は牒(ちょう)という形で下されました。

決断所の牒は、次第に綸旨を超える力を持つようになります。例えば、円覚寺領越前国本荘(福井県鯖江市)では、恩賞で賜ったとする湯浅宗顕の押領に対して、円覚寺は綸旨で解決しようとしましたが、越前守新田義貞は押領停止のためには雑訴決断所の牒が必要と述べています。

後醍醐天皇が設置した雑訴決断所によって、後醍醐の綸旨の効力は相対的に低下するとともに、綸旨によるのか、牒によるのか、どちらが正当性を持っているのかという衝突が生まれてきたのです。

諸国平均安堵法と雑訴決断所~足利高氏の軍事的圧力

官制改革

後醍醐天皇は中央官制にも改革の手をつけていきます。それは官司請負制の否定と八省の改革でした。

それまでの中央官制の基本的なあり方は、官司請負制でした。これは、特定の家が中央の特定の官職を世襲する制度のことです。

特定の家が官職を独占し、それを家業にしていたのです。

例えば、中原氏は造酒正という役職にありました。この役職は宮内省所管の造酒司という役所の長官のことで、京都市中の酒屋役等を管轄していたことから、大きな利権を手に入れていました。

後醍醐天皇はこのような状況を否定し、強い人事権のもとで新たな人間を任命し、官職と家を切り離そうとしたのです。

造酒正とともに、中原氏が世襲していた役職である東市正(ひがしいちのかみ)を、中原氏から名和長年に交替させています。

東西市正は、京都の商業統制に関わる職で、これまた大きな利権を生み出していました。

後醍醐天皇はこの職を名和長年に与えることによって、京都の商業を掌握するとともに、中央官司を天皇の支配下に置こうとしたのでした。

また、八省の人事についても大きな変更が行われました。

前任に左右大臣・大納言・参議クラスだった上級貴族を八省の長である卿に就任させたのです。

現代的にわかりやすく言うと、会社の全ての取締役が部長級に格下げになったイメージです。

本来、左右大臣や大納言のような上級貴族は、議政局と呼ばれる太政官の最高部局のメンバーでした。そして、八省の卿には中下級の貴族が任命されていたのです。議政局は八省を管轄すると同時に、天皇の権力が暴走するのを防ぐ役割をもっていました。

しかし、後醍醐天皇によって大きく変更されたのです。

その理由としては、従来慣例として行われていた官職と官位の対応関係を崩すし、後醍醐天皇が個別の執行機関を直接掌握しようとしたからと考えられています。

後醍醐天皇は、朝廷内部の人と組織を直接掌握しようとしたのですが、従来の先例を大きく変えることになったので、朝廷内部に大きな不満を生じさせることになりました。

地方政策

国司

中央と同時に地方の改革も進められました。その最も大きな特徴は、国ごとに国司と守護を並置した点にあります。

古代律令制度のもとで地方機関として設置された国司は、鎌倉時代を通して形骸化していきましたが、国衙領を支配し、伊勢神宮の運営費用のために賦課される「一国平均役」を徴収する権限をもっていました。

また、国内の荘園・公領の田地面積や領有者を調査して「大田文」と呼ばれる基本台帳を作成・管理するなどの業務を行っていました。

これらの国務については、知行国制の進展のもとで、特定の貴族の家が特定の国を代々知行したことで、国務が特定貴族の家業のようになっていました。

後醍醐天皇はこの点にメスを入れたのです。

例えば中院(なかのいん)家は五代続いた上野国を召し上げられ、新たな国司が任命されました。西園寺家は伊予国を召し上げられました。従来の知行国制が壊されていったのです。

そして、楠木正成が河内守に、名和長年が伯耆守に、足利尊氏が武蔵守に就任するなど、後醍醐天皇側近や倒幕に大きな役割を果たした武士が国司に任命されます。

さらに、国司の交替も従来に比べて頻繁に行われるようになります。後醍醐天皇は国司人事権を掌握し、国司を通じて全国の国衙領を直接掌握したのでした。

守護

新たに守護に就任したのは、ほとんどが武士でした。

職権としては犯罪人の捜索・検挙などの従来の鎌倉幕府の職権を継続していましたが、国司の職権と抵触する部分もあったとみられ、公武の対立原因となりました。

国司・守護兼務の場合もあり、その場合には後の室町時代の守護につながっていきます。

守護が有していた地頭に対する支配権が国司に移されたことで、守護や御家人が国司の支配下に置かれるようになります。

後醍醐の国司制度改革と報われない御家人たち

将軍府

特に重視された奥州と鎌倉には、広域な地方行政機関が設置されました。奥州(陸奥)将軍府と鎌倉将軍府です。

1333年(元弘三年)8月5日に陸奥守に任命された北畠顕家は、同年10月義良(のりよし)親王を奉じて陸奥国府の多賀城へ下向します。

陸奥将軍府には、引付・政所・侍所・評定衆が設置され、小さな幕府のような組織をもって奥州を統治しました。

12月になると、鎌倉に足利尊氏の弟相模守直義が成良(なりよし)親王を奉じて下向し、鎌倉将軍府を開いきました。

目的は関東10か国の管轄であり、関東廂番(ひさしばん)をおいて、北条残党の活動を抑止し、関東武士を糾合しようとしたのである。しかし、足利氏に関東を任せたことは、後の大きな禍根となります。

北畠親房・顕家父子と護良親王の打倒足利計画

建武徳政

後醍醐天皇は徳政令も発令しています。これは、後醍醐天皇の政策そのものが徳政政策であることを示めしています。

その内容は二つからなりたっています。

ひとつは、質物や質入れされた田畑に関しては、元本の半額を支払うことで取り戻すことができるという内容。

ふたつめは、売却地についての内容。承久の乱以降の売買について、幕府の買主の安堵(保障)を認めず、買主が幕府方として滅亡していれば、売主の権利がそのまま認められ、売主・買主両方に後醍醐方として功績があった場合には裁決によるとされました。

また、元弘の変以後については、幕府の安堵は一切認めず、一律に売主に戻すというものでした。

永仁の徳政令では、買主が幕府から安堵されていた場合は保証されていたのですが、今回の徳政令は永仁の徳政令とまったく逆になっています。

承久の乱以降、幕府が保証していた土地を認めないということは、幕府そのものを否定することですから、建武政権の方針そのものが徳政ということにつながります。

この建武徳政は、永仁の徳政令と比較して、その対象が武士から一般民衆へと飛躍的に拡大しながら地域社会に持ち込まれていきました。

後醍醐徳政は、鎌倉後期の武士を対象とした徳政を民衆レベルにまで拡大するという大きな役割を果たしたのでした。

そして、15世紀の徳政一揆へとつながっていくことになります。

参考文献

小林一岳『元寇と南北朝の動乱』吉川弘文館。

佐藤進一『日本の歴史9~南北朝の動乱』中公文庫。

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