記録所と恩賞方~「高氏なし」の親政政権

建武の新政
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後醍醐天皇が発布した旧領回復令・誤判再審令によって、新旧領主による所領支配のトラブルが続発します。

また御成敗式目の制定以来、当時の社会に広く浸透していた所領に関するルールを無視したことで混乱がおこりました。朝敵所領没収令では、最終的に倒幕軍に入った旧幕府御家人たちの不安や不満を募らせる結果になります。

六波羅探題の後継といえる立場にあった足利高氏が、このような武士たちの声の代弁者になりつつある状況が生まれようとしていたのです。

ところが、その足利高氏もまた、親政から遠ざけられることになります。

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記録所と恩賞方

時期はあきらかではありませんが、親政がはじまるとまもなく記録所・恩賞方という2つの機関を後醍醐天皇は設置します。

記録所は1069年(延久元年)、後三条天皇が新設した記録荘園券契所(きろくしょうえんけんけいしょ)に始まり、その後天皇親政の時期ごとに設置されるようになります。仕事の内容は荘園文書の調査だけではなく一般の訴訟その他の政務も行いました。

1321年(元亨元年)、後宇多上皇が院政を廃止して後醍醐天皇が親政を開始したとき、この伝統的な天皇親政機関である記録書を設置したことは言うまでもありません。

そして、1333年(元弘三年)に伯耆国(鳥取県西部)から帰京するとさっそく記録所を復活しました。

光厳天皇の在位を認めず、自身の親政は1331年(元弘元年)の隠岐配流以後も引き続き存在したと主張する後醍醐天皇の立場からすれば、記録所の復活は当然の措置だったのです。

恩賞方は、倒幕に参加した人々に対する恩賞を取り扱う機関です。

この2つの機関の権限については、詳しいことは何もわかっていません。ただ一つ言えることは、両方とも審理あるいは調査機関で、決定機関ではないということです。すべての意思決定は後醍醐天皇が行うというのが親政の原則だからです。

したがって、本来は記録所が出すはずの訴訟の判決や恩賞方の恩賞の決定は後醍醐天皇が行い、綸旨によって当事者に知らされたのです。

 

後醍醐天皇は記録所・恩賞方を設置しました。これは、後醍醐天皇を補佐する機関で、訴訟や恩賞に関する全ての決定は後醍醐天皇が行いました。

 

記録所・恩賞方の職員は、親政の原則に従って後醍醐天皇が直接選任します。そして、後醍醐天皇が信頼し、後醍醐の手足となるような、彼の「お気に入り」の人々が選ばれたのでした。

多くの貴族に混じって、少人数でありながらも名和長年や楠木正成などの倒幕に貢献した武士も選任されています。

しかし、これは倒幕の恩賞によって抜擢されたのではなく、もともと彼らが旧幕府の御家人ではなく、門地をもたない一介の豪族にすぎなかったことが重視されたと考えられています。

楠木や名和のような何の「コネ」もない武士は、天皇によって抜擢されると、それを特別の恩顧と受け取り、天皇専制の従順な手足となることが期待できるわけです。

逆に、旧幕府の有力御家人で清和源氏の嫡流を自認する足利高氏のような「プライドの高い」武士は、天皇による抜擢を当然と考えたり、さらに要求を高める恐れがありました。

記録所・恩賞方の職員には、後醍醐天皇の「お気に入り」の人々が選ばれます。

高氏なし

親政第一位の実力者になったといえる足利高氏は、親政早々に官位官職の特別昇進、鎮守府将軍補任でかなり優遇されたように見えますが、記録所・恩賞方の2つの機関の職員に加えられてません。親政の政治には関与できない状況に置かれました。

六波羅探題跡に屋敷を構え、一般武士や旧幕府御家人からの支持を日に日に高める足利高氏は、親政内で抵抗勢力になる危険性があったのです。

貴族の間で「高氏なし」という暗号めいた風刺がささやかれたのは、この頃と言われています。

親政政権に足場を築くことができないでいる足利高氏は、徐々に後醍醐天皇に圧力を加えていきます。

 

高氏は護良親王との対立を深める一方で、親政への抵抗姿勢を強めていくことになります。

 

 

 

参考文献

佐藤進一『日本の歴史9~南北朝の動乱』中公文庫。

 

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