後醍醐天皇の倒幕活動と六波羅探題滅亡のおさらい

建武の新政
スポンサーリンク

1333年(元弘三年)5月7日、足利高氏は京都六波羅を攻略します。京都から鎌倉に向かって落ちのびようとした六波羅勢は、5月9日に近江国番場峠にある蓮華寺(滋賀県米原市)で滅亡しました。

鎌倉幕府の京都出先機関でありながら、100年以上にわたって朝廷と西国ににらみをきかしていた六波羅探題の最期

【鎌倉幕府滅亡】足利尊氏、六波羅探題を攻め滅ぼす

普恩寺流北条仲時・友時父子と北条時益~最後の六波羅探題

 

後醍醐天皇が立てこもっている伯耆国(鳥取県西部)船上山(せんじょうさん)で六波羅探題滅亡の知らせを受けとったのは、六波羅探題滅亡から約10日後のことです。

スポンサーリンク

後醍醐天皇の倒幕までの歩み

後醍醐天皇が生まれたのは二度目の蒙古襲来(弘安の役)から8年目にあたる1288年(正応元年)でした。

その当時の天皇家は、持明院統と大覚寺統の二系統に分かれて皇位を争い、鎌倉幕府がそれを調停する役割を果たしていました。

原則として、持明院統と大覚寺統が交互に皇位につくことになりますが、このことを両統迭立(りょうとうてつりつ)といいます。南北朝時代もこの分裂がベースとなっています。

後醍醐天皇は1308年(延慶元年)、21歳で持明院統の花園天皇の皇太子となり、10年後の1318年(文保二年)にようやく即位します。31歳での即位で、30歳代での即位は後三条天皇が36歳で即位して以来250年ぶりのことでした。

1321年(元亨元年)、院政をおこなっていた父の後宇多上皇から政権を受け継いだことにより、ついに後醍醐天皇は念願の「天皇親政」を開始したのでした。

後宇多上皇が院政をやめた理由については謎ですが、上皇はいずれ孫の邦良親王に皇位を継がせようと考えていたようで、後醍醐天皇は邦良親王が即位するまでの「つなぎの天皇」でした。

後醍醐天皇は、いつ譲位を迫られてもおかしくない不安定な立場にありました。

 

両統迭立

「つなぎの天皇」であることを知った後醍醐天皇は激怒したといいます。そして、彼の宿願は両統迭立(りょうとうてつりつ)の原則を超えてでも自分の皇位を安定させ、自分の子孫へ皇位を継承させることになったのでした。

しかし、当時の皇位継承には幕府の意向が大きく影響していましたから、後醍醐天皇にとって両統迭立の原則を崩さない幕府の存在は大きな妨げとなったのです。

後醍醐天皇は即位した当初から、鎌倉幕府の打倒を考えていたと言われています。

後醍醐天皇の倒幕計画は、自身の皇位に関わる問題から端を発したものでした。

延喜・天暦時代に帰れ

後醍醐天皇自身の皇位維持と子孫への皇位継承に端を発した倒幕計画ですが、彼には理想とする政治の姿がありました。

それは「延喜・天暦の治」とよばれた時代の政治です。

後醍醐天皇が生きた鎌倉時代後半、10世紀半ばの「延喜(醍醐天皇)・天暦(村上天皇)時代」こそ、天皇親政による平和な時代で、王朝の最盛期だったという伝説が貴族の間に広がっていました。

もちろん、この伝説は美化されて伝えられているのですが、後醍醐天皇も、延喜・天暦時代こそ理想とするべき時代と認識していました。

後醍醐天皇が前例を無視して、死後に送られるべき「おくり名」を生前に自ら「後醍醐」と定めたのですが、延喜時代の醍醐天皇に自身を重ね合わせたに他ならないからで、とにかく彼の延喜・天暦時代への傾倒・熱意はすさまじいものがあったのです。醍醐天皇に憧れていたことを示すエピソードと言えるでしょう。

この延喜・天暦時代は、幕府・院政・摂政関白は存在していませんから、天皇の権力を阻む者がまったくいない時代だったと後醍醐天皇は考えたようです。

後醍醐天皇にとって、幕府・院政・摂政関白は天皇親政を阻む存在であり、理想の時代とされる「延喜・天暦時代」に戻るためには、幕府・院政・摂政関白を廃止することが必要と考えたのでした。
後宇多上皇が院政を止めたことで、後醍醐天皇は目標の一つ「院政の廃止」を達成しています。

次に彼が掲げたのは幕府の打倒でした。

後醍醐天皇の倒幕活動

後醍醐天皇の1回目の倒幕計画は未然に六波羅探題に発覚し、近臣日野資朝・俊基の2人が責任を負って、彼は難を逃れることができました(正中の変)。

 

2度目の倒幕計画も、後醍醐天皇の重臣吉田定房が六波羅探題に密告して発覚します。

1331年(元弘元年)8月24日、後醍醐は六波羅に追及される前に、京都を脱出し、大和に潜んでから、笠置山で挙兵におよびました。

鎌倉から大軍が押し寄せて笠置山は陥落。やがて捕らわれて六波羅に送られ、幕府の強制によって持明院統の量仁親王(光厳天皇)に譲位。そして翌年3月、隠岐に流されました。

 

後醍醐天皇は二度にわたって倒幕計画を企てましたが、いずれも失敗します。追い込まれた後醍醐天皇は笠置山で挙兵しますが、幕府軍に鎮圧されて隠岐(島根県)に配流となりました。

倒幕計画に加わった多くの貴族や武士が、捕らわれ、あるいは討たれる一方で、後醍醐天皇の皇子護良親王(もりよししんのう)は幕府の手を逃れ、大和国(奈良県)に出没してゲリラ戦を続けました。

それに呼応して、河内国(大阪府南部)の豪族楠木正成は赤坂城に籠もって幕府の大軍と戦います。城は陥落しますが、すぐに金剛山の千早城に兵を挙げました。

 

 

1333年(元弘三年)に入ると、播磨国(兵庫県南部)の豪族赤松則村(円心)が護良親王の命を受けて挙兵します。

後醍醐天皇は隠岐を脱出して伯耆国(鳥取県西部)に渡り、豪族名和長年を頼って、船上山(せんじょうさん)に籠もりました。

後醍醐天皇が隠岐に流されたあとも、後醍醐の皇子護良親王が畿内・西国の武士たちに倒幕を呼びかけ、各地で倒幕の動きが活発になりました。

そして4月末、後醍醐天皇討伐のために鎌倉から足利高氏(尊氏)が大軍を率いて上洛します。ところが突如、後醍醐側に寝返ったことで、大勢は急転しました。

京都の六波羅探題はあっけなく陥落し、探題北方の北条仲時と南方の時益は、後伏見・花園両上皇と光厳天皇を奉じて鎌倉へ逃れようとしました。

しかし、探題南方北条時益は山科で野伏の放った矢によって討死。探題北方北条仲時も番場峠蓮華寺で進退きわまり、付き従った432名と自害して果てました。名実ともに六波羅探題は滅亡したのでした。

後醍醐天皇を討つために鎌倉から上洛した足利高氏(尊氏)が、鎌倉幕府に反旗をひるがえして京都の六波羅探題を攻撃したことで、六波羅探題は滅亡しました。

このとき、後醍醐天皇46歳。皇太子となってから26年間、皇位についてから数えても16年間待ち望んだ幕府打倒が成功したのです。

2度の倒幕計画の挫折と隠岐配流という耐え難い試練を、後醍醐天皇は天皇親政実現への情熱によって耐え抜き、その苦労はついに報われたのでした。

後醍醐天皇が目指す政治を邪魔する「幕府」と「関白」はまだ残っています。

 

 

スポンサーリンク
建武の新政
スポンサーリンク
スポンサーリンク
幻了をフォローする
スポンサーリンク
あなたの隣に室町幕府

コメント

タイトルとURLをコピーしました