鎌倉時代の荘園の特徴~地頭・本所・徳政の解説も

鎌倉時代
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院政期に、王家(天皇家)・摂関家・寺家の経済基盤として生み出された「荘園制」は、武家によって成立した鎌倉幕府の影響を受け、新たな展開を遂げることになりますが、鎌倉時代の荘園には3つの大きな特徴があると言われています。

それは、「立荘の収束」「最大の荘園領主・鎌倉幕府」「職の変化」です。

それぞれを簡単に説明した上で、鎌倉時代の荘園に関するキーワードを見ておきましょう。

 

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立荘の終息

院政時代に盛んだった立荘は、鎌倉時代前期(後鳥羽院政期)になると下火になります。畿内周辺で小規模な立荘が行われるていどまで落ち込みますが、承久の乱が終わると立荘は姿を消します。

理由としては、在地領主(御家人)の身分を保障する幕府が成立したので、在地領主が貴族や寺社に保護を求めて所領を寄進する必要がなくなったという説と、この時代には王家・摂関家・寺家の財政基盤が確立したことから、立荘の必要がなくなったという説があります。

最大の荘園領主・鎌倉幕府

鎌倉時代の荘園を考える上で、当然ですが、鎌倉幕府と荘園の関わりを無視することはできません。

「地頭の荘園侵略」に代表されるように、鎌倉幕府と荘園制は対立的に語られることが多いのですが(地頭と荘園領主の対立はありました)、実際は、地頭には荘園領主への年貢納入などが義務付けられていて、地頭が違反した場合、荘園領主は幕府に訴え、地頭職の停止などの処分を求めることができました。

承久の乱の後、承久没収地に新補地頭が設置されると荘園領主との間で様々なトラブルが発生しますが、幕府はそれに対応するために御成敗式目をはじめとする法律・裁判制度の充実をはかっていきます。

 

 

したがって、鎌倉幕府と荘園制が対立的関係にあるというのは誤りであるとされています。何度も言いますが、地頭が荘園領主の言うことを聞かずに、年貢を納めないなどのトラブルは多々発生します。それが、下地中分や地頭請という仕組みを生み出すことになります。

そして、意外と思われるかも知れませんが、鎌倉幕府自身が当時最大の荘園領主でした。ただし、荘園領主になる方法が異なります。

先の武家政権である平氏政権は、院近臣と同じように、後白河法皇らと結んで立荘を行いました。

鎌倉幕府は、立荘ではなく軍事行動によって敵方の所領を没収(謀叛人所領没収)し、そこに地頭職を設置するという手法を通して、荘園制の中に経済基盤を確立したのでした。

職の変化

荘園の職は、立荘時点では「本所(荘園領主)-預-下司(現地管理者)」という単純な構造をとっていましたが、鎌倉時代後期になると、職の分化・流動化が始まり、「本家職・領家職・預所職・下司職・公文職」などのように、荘園制下で重層化・複雑化していきました。

 

鎌倉時代の荘園を理解するための用語解説

地頭職(じとうしき)

鎌倉幕府が荘園公領に設置した所職で、一般的には荘園領主(本所)ではなく、幕府が補任権(任命権)をもっていました。職務内容は一定ではありませんが、幕府法には現地管理や警察裁判に関する規定がもうけられています。

地頭職の成立については、1185年(文治元年)11月説をはじめいくつかの説がありますが、それ以前から頼朝勢力は「謀叛人所領跡」に荘郷を単位として地頭職を設置していきました。

 

 

南北朝時代以降になると、地頭職の実態的意義は失われていきます。

本所

中世の荘園領主のことをさします。

もともとの意味は「元のところ」「本来の場所」で、人(寄人)や土地(荘園)の帰属先、つまり寄人や荘園の職の任命者のことを指すようになったと考えられています。

本家・領家のどれを指すかについては、明確に決まってはいません。一般的に、国衙・荘園の上級職を指す言葉として漠然と使われていました。

11世紀半ば以降になると、国司(国衙)に対する荘園領主を指す用語として用いられました。

鎌倉時代以降になると、地頭職が設置された「武家領」に対して、再び国司・荘園領主の上級職を指す用語になり(御成敗式目)、やがて公家そのものを指す用語になります。

まとめると、

(漠然と)国衙・荘園の上級職→(国司に対して)荘園領主→(武家に対して)国司・荘園領主→公家そのもの

という変化です。

徳政・徳政令

為政者が善政を行えば天は賞賛して祥瑞(しょうずい)を下し、悪政を行えば災害や怪異を下すという、古代中国の政治思想「天人相関説」の影響を受けて、天災や戦乱などの天変地異が起こると、為政者(天皇・将軍・執権など)は自身の不徳を天に謝って仁政を行いました。その仁政のことを、日本では「徳政」と呼びます。

仁政の具体的施策として、豪華な行事・服装の禁止、荘園を公地に戻す荘園整理令、寺社・御家人の所領回復、裁判制度の整備・拡充などが挙げられます。

鎌倉時代後期になると、朝廷・幕府ともに徳政のための施策を頻繁に打ち出すようになります。

その中でも、幕府が発布した「永仁の徳政令」は有名で、特に売却・質入後20年未満の御家人所領は無償で取り戻せるという施策については、モノはあるべき姿(本来の持ち主)に戻すのが正しいあり方と考える古代以来の人々の観念に基づいたものでした。

以後、土地の取戻し・債務放棄という「本来の持ち主に返す」内容の徳政令が、徳政として定着していきます。

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