承久の乱が荘園社会に与えた影響とは~新補率法・西遷御家人など

鎌倉時代
スポンサーリンク

今回は、承久の乱が鎌倉幕府と荘園の関係にどのような影響をもたらしたのか見ていきましょう。

スポンサーリンク

承久の乱と承久没収地

承久の乱とは、1221年(承久三年)に後鳥羽上皇が執権北条義時の追討を命ずる宣旨(太政官の命令書)を発して挙兵するも、幕府軍に敗れた戦乱のことです。

 

 

乱自体はわずか1カ月ほどで終わりましたが、幕府は後鳥羽・順徳・土御門の3上皇を「謀叛人」として配流に処し、王家(天皇家)荘園を「謀叛人跡」として没収しました。

承久の乱と乱後の処分は、治承・寿永の内乱(源平合戦)以上に中世の政治文化に大きな影響を与えました。

承久の没収地は、「謀叛の卿相雲客(けいしょううんかく)ならびに勇士所領などの事、武州(北条泰時)尋ね註す分凡そ三千箇所なり」(『吾妻鏡』)と言われるように膨大で、院近臣の領家職・預所職から京方武士の地頭職・下司職まで没収所職も多様でした。

治承・寿永の乱では平家の所領だけが没収されましたが(平家没官領)、承久の乱では後鳥羽上皇に組した全ての者の所領が没収されています。

王家領荘園への鎌倉幕府の関与

そのうち、後鳥羽上皇が保有していた八条院領は、幕府に一度没収されますが、後堀河天皇の父である後高倉院に寄進されます。しかし、幕府は「幕府が必要なったときは返すように」という条件をつけていたことから、王家(天皇家)の経済基盤は幕府の権限下に置かれることになります。

王家荘園に対して、幕府が一定の権限をもったことによって、荘園をめぐる公家社会の紛争に幕府が引き込まれる原因となり、鎌倉時代後期の公武関係に大きな影響を与えることになります。

新補率法

鎌倉幕府は没官地への地頭職補任という形式で、御家人に新恩給与を行います。

 

 

地頭の職務・得分(収益)は、没官された本司跡(京方武士の下司職などの権利内容)を引き継ぐものでしたが、本司跡の得分の乏しい、あるいは先例のない地頭には新補率法の適用が認められました。

新補率法とは、地頭の得分を当該所領の総収益高に対する比率をもって決める方式で、1223年(貞応二年)6月15日の宣旨に基づいて7月6日の関東御教書(幕府の命令伝達書)によって定められたものです。

新補率法の適用された地頭を新補地頭と呼びますが、その得分は田畠11町ごとに1町の給田畠、1段ごとに5升の加徴米、山野河海の所出物の半分、犯罪者の没収財産(検断得分)の3分の1とされていました。原則として下地進止権は認められませんでした。

本補地頭が新補率法を採用する「両様兼帯」は禁じられましたが、のちになし崩し的に広まります。

下地進止権(したぢしんしけん)

下地」とは、中世荘園や国衙領において、田畠や山林などの収益(年貢・所当や公事)の対象となる土地そのものを指します。年貢などの収益を「上分」といったことに対応しています。

鎌倉時代に入って地頭制が施行されると、下地に対する実際的な支配権(下地進止権)は地頭や荘官などの在地領主が掌握するようになり、年貢・所当などの収益権(得分権)は荘園領主が掌握ように分化しました。

しかし、地頭や荘官も荘園内に領有が認められた地頭名や荘官名などを通じて得分権を行使できたので、下地進止権と得分権は明確に区分ができず、たびたび地頭・荘官と荘園領主との間で紛争が生じました。

その結果、鎌倉中期以降は、下地を地頭と荘園領主で二分する「下地中分」や、年貢の納入と荘園の経営の両方を地頭が請け負う「地頭請」が成立します。

西遷御家人

承久没収地への地頭補任に伴って、多くの東国武士が西国荘園に赴きました。これらの御家人のことを「西遷御家人」といいます。

東国の武士社会の慣行が西国社会に持ち込まれて摩擦を引き起こすこともあれば、関東から新しい農業技術を持ち込み、地域社会と協調して開発を行う地頭もあらわれました。

承久の乱後の御家人の西遷は、人や技術など様々なものの移動を伴い、地域間の交流を促進させる効果をもたらします。

また、「所に随ひて或いはこれ在り、或いはこれ無し、必ずしも一様に非ず」と言われるように、それまで荘園の荘官職は、公文・田所・案主(あんじゅ)・惣追捕使など、荘園ごとの個別事情によって名称・役割・権限も多様でした。

しかし、新補率法が一律の基準を明示したことで、荘園の個別事情に左右されない幕府の新補地頭が全国の荘園に広がり、多様な荘園現地の秩序に一定の基準を生む効果をもたらしました。

鎌倉幕府の裁判制度発展の背景

こうした背景によって、承久の乱以降の荘園支配をめぐる相論は、院政期に頻発していた「国衙-荘園間」にかわって、「預所-地頭間」「領主-百姓間」の相論が増加します。

新たな地頭体制の成立によって引き起こされた混乱によって、鎌倉幕府に対して地頭をめぐる多くの訴訟が持ち込まれるようになると、幕府は裁判制度を整備して対応していくことになります。

1232年(貞永元年)の「御成敗式目」に代表される幕府法は、幕府以外の人々にも受け入れられ、本来の幕府法圏を超えた社会的な広がりをみせていきました。

 

 

このように、承久の乱による承久没収地に対する政策は、荘園領主・公家社会のみならず、荘園現地の秩序にも大きな影響を及ぼしたのでした。

コメント

タイトルとURLをコピーしました