武士たちの食生活・摂取カロリーは自衛隊レベル

鎌倉時代
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多くのメディアやネットを通して、昼夜問わず防衛の任務につく自衛隊員の食事の内容が一般市民の目に入るようになってきました。そして、腹が減っては戦にならないので、ミリ飯と言われる戦闘時の食料も色々工夫されていることが明らかになり、マニアにはたまらないネタとなっているのです。

今から1千年前の武士たちも、食事の重要性を理解していたのでした。

今も昔も、武士と食事は切っても切れない関係なのです。

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「塩のある所に飢えはなし」と言われるように、米が切れて、食べるものがほとんどなくなっても、水を飲み、塩をなめていれば何日かの命をつなぐことができます。ですから、武士は塩を護符のように身につけて、ぎりぎりになるまでこれを用いることはなかったようです。

兵糧

「兵糧」は、武士たちが陣中で腹を満たすための食料のことです。兵糧は戦国時代になってからの通称で、それ以前の呼び名は「兵粮米」または「兵乱米」と呼ばれていました。

平安末期の「山槐記」には、1180年(治承四年)に平清盛が高倉院の院宣を受けて、諸国の公田荘園に「兵粮米」を課したと記されています。

この記録が、兵糧の最初の記述とされています。治承四年といえば、各地の源氏が反平家で一斉蜂起した年で、反乱勢力を討伐するために平家方は食糧として米を徴発したのでした。

兵糧の現地調達は源氏方も行っていて、源義経の部下が平家追討の際に、軍糧に困窮したあげく、平家同様に「兵粮米」の名目で諸国の荘園から徴発しています。

しかし、兵糧米の徴発がたび重なると、徴収する役人がそれを口実に農民に押領や乱暴を働いて問題になります。鎌倉幕府が成立すると、一定の土地だけを兵粮料所として、それ以上の徴収は禁止されました。

時代が下って戦国時代になると、農民を敵にまわすような強引な徴収は行えなくなり、「兵粮奉行」を置いて「兵糧」の準備、小荷駄による運搬、兵たちへの配分などを専門的に行うようになります。

この兵粮奉行の名を初めて用いたのは織田信長です。

武士は大食い

武士の食事は1日に玄米五合と決まっていたようです。これは普段の食事で、朝と夕の二回に分けて食べました。「新武者物語」には「人の食物は、朝暮二合五勺づつ然るべし」とあり、江戸後期の「瓦礫雑考」には、「武家の昼食は無下に近世のこと也」とあります。鎌倉・室町時代の武士たちの食事は1日2食だったことがわかります。

玄米五合というと約750グラムで、米だけで2600キロカロリーもあります。このほかに味噌汁やイモ・大根などの根菜類の煮物、干物もつきますので、ふだんから1日3000キロカロリーくらい摂取していたことになります。

このカロリーは、現代の自衛隊員の摂取量とほぼ同等です。

自衛隊の食事は現代ということもあって、カレーや揚げ物など脂質や肉類などカロリーの高い食事が可能です。しかし、鎌倉・室町時代にカレーや唐揚げなんかありませんから、一品一品は低カロリーです。したがって、武士たちが口にする食べ物の量はすさまじいものだったことになります。とにかく大食いです。

現代の日本人男性の1日のカロリー摂取量は2300キロカロリーくらいと言われていますので、やはり武士の食べる量は驚くばかりです。

何度も申し上げますが、このカロリーは普段の時、平時の時です。

これが、出陣して戦闘状態になると、陣中給付の兵糧は急増します。たとえば、「訓蒙士業抄」によりますと「人数十人につき一日米一斗、味噌二合、塩二合を用う。一日二合五勺、中食二合五勺なり。のこり二合五勺は不時の食となすべし」と記されています。

つまり、合戦になると1日米七合以上、約1キログラムの米を食べているのです。武士は完全武装すると30キログラムの重さの鎧兜を身につけて戦うので、カロリーを摂取してスタミナをつけておかないと生き残ることができなかったということですね。

武士たちの食欲にはただ驚くばかりです。

 

参考文献

『蒙古襲来と北条氏の戦略』成美堂出版。

 

 

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