鎌倉時代の女性は強かった?伊賀氏の変に見る武家の相続

鎌倉時代
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「伊賀氏の変」を制して、北条泰時は3代執権に就任します。

泰時の執権就任の裏で激しいバトルを演じたのが、北条政子と伊賀方です。

北条政子は言うまでもなく源頼朝の妻で、2代執権北条義時の姉です。伊賀方は義時の後妻。

泰時からすれば、政子は叔母で、伊賀方は継母ということです。

>>>伊賀氏の変の詳細はこの記事

 

鎌倉時代後半に創られた『吾妻鏡』では、「伊賀氏の変」について「伊賀方が泰時への家督相続を反対した」という話で終わっています。

最終的に、北条政子がこのバトルに勝利したことで泰時は執権に就任し、伊賀方は鎌倉から追放され、伊豆へ配流となります。

しかし、このバトル。敗者の伊賀方が結局悪者のように扱われていますが、鎌倉時代の相続の慣習から見ると、北条政子の方が暴挙に出ていたようです。

伊賀方は、義時の妻として当然の行動をとっていたのです。

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鎌倉時代の相続の慣例

伊賀氏の変は、北条義時の後妻「伊賀方(いがのかた)」によって引き起こされたとされていますが、鎌倉時代初期は北条政子や比企尼など多くの女性が政治に影響を与えています

なぜ女性が影響を与えていたのかというと、答えは単純で、意外にも鎌倉時代の女性の地位は、その後の時代よりはるかに高かったからです。

たとえば、御家人の場合、男女の区別なく親から所領を相続することができました。

すなわち、親の所領は子供たちに平等に分配されたのです。もちろん、嫡男と他の兄弟との間に所領の広さが違うなどあったと考えられますが、男女関係なく相続されたのです。

そういう意味では、現代の遺産相続とほぼ同じといえます。

ただし、この相続慣例によって、元寇後の御家人の生活は窮地に追い込まれていきます。それはまだ後の話ですけれども。

>>>後の話はこちらをどうぞ

また、御家人の娘が親から贈与された所領をもったまま他氏と結婚したとき、自分の所領を自分の意思で子孫に譲与できました

つまり、夫に相談せずとも、妻は自分の嫁入り道具(土地)を子供たち分け与えることができたわけです。

現代でも、妻は結婚する前から保有している自分の財産について、夫に相談しなくても自由に処分できますが、鎌倉時代もそうだったのです。

鎌倉時代の財産贈与は生前贈与が原則です。夫が生前贈与せずに死去したときは、妻が亭主の代理として贈与を行うことができたと言われています。

もう一度、ここで鎌倉時代の相続の慣例を整理しましょう。

 

  1. 親の所領は、男女関係なく子供たちに平等に相続された。
  2. 妻の所領は、夫の了解がなくても子供たちに分け与えることができた。
  3. 財産は生前贈与が原則だったが、生前贈与ができなかった場合、妻が代理で贈与を行った。

 

北条義時が没したとき、所領配分状が作られていれば何の問題も発生しなかったのですが、義時は6月12日午前8時ごろ倒れ、翌日午前10時ごろ没したため生前贈与をする余裕はなかったとみられています。これが「伊賀氏の変」の発端です。

伊賀方は当然のことをした?

今まで見てきたように、鎌倉時代の慣例を考えれば、義時の後妻である伊賀方は義時の代理として財産を処分し、義時の後継者を選ぶのは当然と考えていた可能性があります。

ですから、伊賀方が自分が生んだ息子北条政村を義時の後継者にして、娘婿一条実雅を新将軍につけようと画策したとしても、鎌倉時代の武家社会における婚姻や相続の慣習からすれば当然の動きだったと言えます。

泰時が時間をかけて鎌倉に入り、叔父の時房・従兄弟の足利義氏と行動をともにし、屋敷周辺を主だった被官に警備させるなどの慎重な行動をとったのも、伊賀方が政村の擁立に動くと考えたからでしょう。

慣例を破った泰時

伊賀方が当時の慣例に従って行動したとするならば、逆を言えば、泰時はこの時代の相続に関する慣例を破って執権の座に就いたことになります。

つまり、義時の代理である伊賀方が推薦する北条政村を押さえて、政子の後押しで執権の座についた無法者と言えるかもしれません。

事件のあと、泰時が首謀者に対して流罪以上の処置を行わず(一条実雅を除いて処罰された人々は1年後赦免)、義時の遺領の大部分を兄弟に分け与えているのも、慣例を破った負い目があったのかもしれません。

また、「吾妻鏡」では江間泰時と呼ばれ、北条泰時とは一度も呼ばれていません。北条泰時は北条一族の嫡流と見なされていなかった可能性が指摘されています。

 

『吾妻鏡』は、鎌倉時代半ばに北条氏関係者が中心となって創ったものです。

その関係者が、泰時のことを江間泰時と呼ぶのですから、泰時が北条氏の惣領(リーダー・族長・棟梁)とは見なされておらず、また執権の座に就いたものの、正統性を欠いていたことを暗に物語っているのかもしれません。

このように、伊賀氏の変は、泰時の立場が北条一族内で大変弱くて不安定なものだったことを示した事件といえます。

さらに1227年(安貞元年)6月、北条泰時の次男である時実が被官(家来)の高橋次郎に殺害される事件がおこりました。

泰時の北条氏(得宗北条氏)は、自分たちの家来すらコントロールできていなかったことを示唆しています。

泰時の北条氏改革

立場の弱い泰時が早急にやらなければならないことは、北条氏の一族に対する支配権(惣領権)を強化し、執権北条氏を中心とした幕府政治の安定化をはかることでした。

そこで泰時は、北条氏惣領として一族と被官に対する強化を考え、公文所を設置しました。公文所の職務は北条氏の所領に関わるものだったので、経済基盤である所領支配に専念していたことがわかります。

7月29日、尾藤景綱を初代の家令職に任命し、さらに8月28日、景綱・平盛綱に命令して家法を作成させます。

惣領の経済力を背景に家法を制定し、一族に対する統制を強化していきます。しかも、代々の北条氏の惣領はこの家法を追加していき、北条氏一族とその被官を規制する「御内の法令」へと発展していくのです。

むすび

伊賀氏の変は、鎌倉時代の相続の慣例からすれば起こるべくして起こったもので、北条泰時は叔母で尼将軍政子の後押しがあればこそ執権職に就くことができたのでした。

自分の立場が非常に弱いことを理解していた泰時は、時政・義時のように力づくで何かを成し遂げるという方法ではなく、北条氏をルールによって統制することで、自身の惣領としての地位を上昇させていくのでした。

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