15代執権・金沢流北条貞顕~10日間だけ執権だった男の生涯

鎌倉時代
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金沢貞顕は12代連署で、15代執権です。幕府の中枢にいながら、内管領長崎氏に実権を奪われていたがため、執権として活躍らしい活躍をせずに幕府滅亡とともに滅んだ貞顕。優しい性格だったのか、臆病な性格だったのか意見が分かれる人物ですが、彼の生涯がどのようなものだったのか見ていきましょう。

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金沢流北条氏

金沢貞顕は、1278年(弘安元年)に金沢顕時の子として生まれました。母は遠藤為俊の娘と言われています。金沢北条氏は北条義時の六男実泰を祖とする庶流ですが、実泰の子実時が北条泰時に登用されて才能を発揮すると、北条時頼・時宗政権下で評定衆や一番引付頭人などの要職に就きました。実時は武蔵国久良岐郡六浦荘金沢郷に別邸を設けて、金沢文庫を創設したことでも知られています。

 

北条氏系図

 

金沢文庫設立者・金沢実時の生涯
金沢文庫。本来の読み方は「かねさわぶんこ」が正しいのですが、神奈川県立金沢文庫も京急金沢文庫駅も「かなざわぶんこ」と呼ぶので、「かなざわぶんこ」が一般的な金沢文庫。 金沢文庫は、決して出版社の名前ではありません。鎌倉幕府随一の文化人・教養...

その子顕時も北条時宗・貞時のもとで評定衆や引付頭人に任命され、庶流でありながら金沢氏は政権中枢にあって、嫡流の得宗家を支えた一族でした。

 

得宗とは何か?簡単に解説
当サイトは鎌倉幕府・時代から室町幕府・時代に光を当てることを企てているのですが、この時代の理解促進を妨げる用語に「得宗(とくそう)」があげられるのではないでしょうか。得宗って執権?北条の何?そもそも誰?・・・。 鎌倉時代が好きであれば、常...

少年時代

1285年(弘安八年)11月、金沢貞顕が8歳のときに「霜月騒動」が勃発します。執権貞時の外戚で御家人のリーダー格だった安達泰盛が、得宗家御内人のリーダー格である内管領平頼綱に討たれるという事件で、泰盛と頼綱の争いだけにとどまらず、事件は全国に波及し、多くの御家人が滅ぼされました。

 

【霜月騒動】御内人と御家人の戦い・平頼綱、安達泰盛を滅ぼす
得宗北条氏の被官(家来)を御内人(みうちにん)とよびます。その御内人の筆頭のことを内管領(ないかんれい)とよびます。 この内管領は役職名ではなくて、得宗家の執事という意味合い程度で、室町幕府の管領(かんれい)と異なります。室町幕府の管領も...

 

貞顕の父顕時は、泰盛の娘婿だったことから連座で下総国埴生荘に流罪となります。このため、貞顕は父不在の少年期を過ごしました。

1293年(永仁元年)4月、執権貞時によって平頼綱は滅ぼされ(平禅門の乱)、顕時は鎌倉に戻ることを赦されます。貞時16歳のときでした。この少年時代に、霜月騒動・平禅門の乱という血で血を争う幕府内部の権力争いを目にしたことが、彼の性格に大きな影響を及ぼしたのかもしれません

 

御内人・内管領平頼綱の政治と平禅門の乱
1285年(弘安八年)11月、霜月騒動で幕府宿老最後の有力御家人の安達泰盛は、平頼綱を中心とする勢力によって滅ぼされました。 泰盛にかわって政権の運営にあたったのは平頼綱でした。日蓮は、平頼綱を安達泰盛と並ぶ有力者と述べていま...

 

1301年(正安三年)3月に顕時は54歳で没し、貞顕は金沢氏の家督となります。このとき24歳。同母兄の顕実らを越えての家督を継承でした。前年には従五位上に叙されていることから、兄弟たちの中でもかなり有能だったことをうかがい知ることができます。顕時は有能な貞顕に家督を継がせたかったのでしょう。

2度の六波羅探題

1302年(乾元元年)7月、25歳の貞顕は六波羅探題南方として上洛します。金沢氏では最初の就任でした。

前任の大仏宗宣は探題南方として初めて執権探題(南北探題の長)となり、永仁の徳政令を西国で施行していましたが、貞顕も本来序列が低い南方の就任でありながら、1303年(嘉元元年)12月~1307年(徳治二年)8月には執権探題として政務を主導しています。

 

【永仁の徳政令】混乱を招いた北条貞時の政治
平頼綱の政治は、明らかに安達泰盛の政策を否定したものでした。 そして、今度は北条貞時が平頼綱の政策を否定します。 平頼綱が安達泰盛を滅ぼした霜月騒動以後の賞罰はすべて無効とされたのです。 また、頼綱によって失脚させられた御家人を幕府...

 

貞顕が六波羅探題に就任した頃、六波羅評定衆や奉行人などの官僚組織は完成していて、西国の裁判をはじめ六波羅探題の職務そのものは官僚たちが担っていました。貞顕に求められた能力は、官僚たちをスムーズに動かす能力だったと言われています。

 

六波羅探題③・探題は骨の折れる仕事
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貞顕は探題南方時代、公家たちから借用した『たまきはる』『百錬抄』『法曹類林』など朝廷の歴史や法律に関する様々な本を書写・収集しています。北条一族きっての文化人・教養人らしい金沢氏の側面を物語るエピソードですが、六波羅の実務は官僚たちが担っていて、探題の職務が六波羅探題創設時のような激務ではなかったことの裏返しと言うこともできます。

1308年(延慶元年)12月に鎌倉に戻り、1310年(延慶三年)6月に探題北方として2度目の上洛を果たします。貞顕は2度目の探題就任を固辞しますが、再任されました。

再任された理由は、京都の情勢が、貞顕が探題南方として京都に赴任していたときと情勢は大きく変化したからと考えられています。

その頃の京都は、持明院統と大覚寺統の両統の対立の激化し、悪党らの蜂起がさかんになっていて、六波羅探題の任務は困難なものとなっていました。そこで、京都を熟知している貞顕に白羽の矢が立ち、京都へ上洛することになったようです。1314年(正和三年)11月には、鎌倉に戻っています。

 

持明院統と大覚寺統の始まりと鎌倉幕府を巻き込んだドロドロの抗争
鎌倉・室町時代を理解するには、この時代に起こった「天皇家の分裂」を理解することが非常に重要と思われます。 というのも、鎌倉幕府の滅亡も、南北朝時代もこの両統迭立を軸に動いていきます。足利義満によって南北朝時代は終結したことになっていますが...
持明院・大覚寺統の荘園をめぐる仁義なき争いと文保の和談
持明院統と大覚寺統に完全に分裂し対立した天皇家は、収拾がつかなくなります。幕府もこの対立に巻き込まれますが、一貫して両統迭立の原則を固執します。この状況を打破しようとしたのが、後醍醐天皇です。 室町院領の折半 1298年(永仁...

 

10日間の執権・嘉暦の騒動

鎌倉に戻った翌年の1315年(正和四年)7月に連署に就任。このとき38歳。翌年7月には14歳の北条高時が執権となり、貞時は約10年間にわたって高時を補佐することになります。得宗を支える「御一族宿老」として、官位は従四位上・修理権大夫に任じられました。

しかし、高時・貞顕政権はこの10年の間、大きな政策を行うことはなく、政治の実権は内管領長崎円喜・高資父子と岳父安達時顕らが幕政を運営していました。1324年(元亨四年)に後醍醐天皇による「正中の変」が起こりますが、何も対応できずに終わります。

 

正中の変・後醍醐天皇、倒幕計画を立てるも隙だらけで失敗
1321年(元亨元年)、後宇多上皇の院政が停止され、後醍醐天皇の新政がはじまりました。後宇多上皇が院政を停止した理由はよくわかっていません。 念願の「治天の君」の地位を手に入れた後醍醐天皇は、いよいよ倒幕に動きます。 後醍醐天皇の倒幕計画...

 

1326年(嘉暦元年)3月に執権高時は出家し、貞顕は長崎氏に推されて執権に就きました。これに猛反発したのが高時の弟泰家と生母大方殿。高時の弟泰家は自分が執権になるものと思っていたようで、金沢貞顕の執権就任という「予想外」の出来事に対して、泰家とその生母大方殿は腹を立てて、泰家は出家するという事件が発生しました。貞顕は泰家の襲撃を恐れて、わずか10日で執権を辞して出家します。49歳。これを嘉暦騒動とよびます。臆病な性格といわれるゆえんです。

このあと執権に就いたのは赤橋守時でした。守時は、尊氏の正室で、義詮・基氏の母である登子の兄です。

 

【嘉暦騒動・元徳騒動】傀儡化した得宗北条高時と鎌倉幕府の限界
1311年(応長元年)12月6日、まだ9歳という幼い高時を残して病に伏していた貞時は、臨終に際して御内人の長崎高綱と安達時顕に後をたくして死去します。享年41歳。戒名は最勝園寺殿覚賢。 北条貞時は永仁の徳政に失敗して以降、寄合にも出席しな...
鎌倉幕府最後の執権・赤橋(北条)守時
鎌倉幕府最後の執権は「北条高時」ではありません。 高時は最後の「得宗(とくそう)」で、最後の執権は「赤橋流北条守時」です。 「赤橋守時って誰?」と言わないでください。 足利尊氏の正室登子の兄、つまり尊氏の義兄。あるいは、室町幕府2代将...

 

金沢氏の家督を継いだのは貞将。1324年(正中元年)11月、貞将は貞顕同様に探題南方として5千の兵を率いて上洛します。正中の変直後の上洛で、幕府が貞将を期待していたと推測されます。貞顕は貞将の探題在任中、鎌倉から手紙を送って様々なアドバイスを与えました。貞顕の優しさをうかがい知ることができます。

 

幻の17代執権・金沢貞将の生涯~鎌倉幕府滅亡の日に執権就任?
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1333年(元弘三年)5月22日、鎌倉幕府は滅亡し、貞顕は北条高時ら一門とともに東勝寺で自害しました。享年56歳。

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【鎌倉幕府滅亡】足利尊氏、六波羅探題を攻め滅ぼす
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参考文献

秋山哲雄『鎌倉幕府滅亡と北条氏一族』吉川弘文館。

細川重男編『鎌倉将軍執権連署列伝』吉川弘文館。

北条氏研究会編『北条氏系譜人名辞典』新人物往来社。

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