天皇の御願寺・法勝寺~白河天皇の巨大造営事業

院政の時代
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聖武天皇の東大寺、桓武天皇の平安京、足利義満の金閣・相国寺、織田信長の安土城、豊臣秀吉の大阪城など、為政者が己の権力を誇示するために巨大建設を行うというのは、日本の歴史にしばしばみられる光景のようです。もちろん、このことは日本特有の現象だけではなくて、ヨーロッパや中国にも見られる光景ですが、日本の中世(院政期から織豊期・江戸初期)はそれが顕著におこなわれた時代といえるでしょう。

今回は、白河天皇によって行われた巨大造営事業を見てみましょう。

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法勝寺の様子

法勝寺の塔舎完成供養が行われたのは1077年(承暦元年)12月18日のこと。場所は平安京郊外の白河の地で、今の京都市左京区岡崎。平安神宮のあたりと言えば、何となくおわかりいただけるのではないでしょうか。

その完成供養には、白河天皇・白河の祖母陽明門院禎子内親王・中宮賢子以下の皇族、関白藤原師実(頼通の子)以下の公卿たちが臨席し、庭の舞台では種々の舞楽が奉納され、300人以上の僧侶による供養会が行われました。

伽藍

完成した堂舎は、金堂・講堂・五大堂・阿弥陀堂・法華堂などで、金堂付属の廻廊、鐘楼、経蔵、僧坊、釣殿御所、南大門、南面東西脇門、北大門、西大門、西南南北門、西南南次門、三面築垣などもやがて完成し、壮大な伽藍を有していました。

八角九重の塔

特に有名なのは八角九重塔で、1081年(永保元年)10月27日に心柱が建てられ、1083年(永保三年)10月1日に薬師堂と八角円堂とともに完成しました。九重塔は高さ80メートルもあったそうで(京都駅から見える東寺五重塔は54.8メートル)、京都に出入りする人からよく見えたそうです。ちなみに、のちに足利義満が相国寺に八角七重塔を建設しますが、これは108メートルにおよびました。中世の京都は、高さ制限お構いなしの高層建設が行われたのです。

建設はさらに続き、1085年(応徳二年)には常行堂、1109年(天仁二年)に北斗曼荼羅堂、1122年(保安三年)には小塔院が完成します。この小塔院には小塔26万3千基が納められ、さらに1128年(大治三年)に円塔18万余基が加えられています。『愚管抄』は「国王の氏寺」と称しています。

成功

これらの堂塔はすべて成功によって造営されました。最初に完成した分は、金堂・講堂・廻廊・鐘楼・南大門は高階為家の播磨守重任の功で、五大堂は藤原良綱の阿波守の功、阿弥陀堂は藤原顕綱の丹波守の功、法華堂は藤原仲実の受領の功によって建てられました。

摂関家の別荘地から六勝寺へ

法勝寺の造立は、1075年(承保二年)6月に始まりましたが、その建設付近にはもともと白河殿とよばれる摂関家の別荘があったと言われています。9世紀半ばに摂政藤原良房がこの地に別邸を構えたのが始まりで、それは基経、忠平さらに道長へと伝領されました。桜の名所で、公卿らが招かれて、観桜の宴やさまざまな行事が行われていたようです。

そして、この邸宅は道長から頼通へ、さらに師実へと伝えられましたが、1074年(承保元年)2月に頼通が没すると、師実は白河天皇にこの地を献上しました。そこには、前代の後三条天皇と頼通のような対抗関係ではなく、白河の中宮賢子が師実の養女という関係から、白河と師実の協調関係に基づいて行われたのでした。

白河の地の様子

法勝寺は当初三綱(寺院を管理・運営し、僧尼を統括する3つの僧職)と白河上皇の関係者以外は常駐せず、僧侶はほとんど住んでいなかったという説と、白河の地は頼通の時代から急速に開発が進み、寺辺に僧が常駐する舎屋が立ち並ぶ都市的景観を有していた説があります。どちらの説が正しいのかは定かではありませんが、12世紀初頭に法勝寺に続いて「六勝寺」と総称される国王の氏寺が建てられると白河界隈は大きく変貌することになります。

 

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六勝寺

まず、二条大路東端の北側に、1102年(康和四年)に堀河天皇の御願寺尊勝寺、1118年(元永元年)に鳥羽天皇の御願寺最勝寺、その南側には大治二年)に待賢門院の御願寺円勝寺、1139年(保延五年)に崇徳天皇の御願寺成勝寺、1149年(久安五年)に近衛天皇の御願寺延勝寺が白河院政期から鳥羽院政期にかけて造営されていきました。この間、1095年(嘉保二年)に院御所として白河南殿(泉殿)は、1114年(永久二年)にはその北側に白河北殿が造営されます。

法勝寺の性格

法勝寺の伽藍配置は、塔・金堂・講堂・薬師堂が南北に一直線に並ぶ、四天王寺式の伽藍配置だったそうで、国家鎮護の寺院という性格を有していたことが指摘されています。

さらに、法勝寺には大きな池をもつ庭園があったそうで、これは道長の造営した法成寺をモデルにしたと言われています。もともとは、摂関家の別荘地だったのですから、大きな池に寝殿造の邸宅が立っていたと推測できますが、道長の法成寺は、僧坊と阿弥陀堂、池付き庭園からなる浄土教的な寺院(平等院鳳凰堂が代表的です)で、1022年(治安二年)に金堂ができると、金堂を中心に発展していきました。

ちなみに、法成寺は南北朝時代の観応の擾乱では高兄弟の本陣になったり、延暦寺の強訴では室町幕府軍の本陣になるなど、もはや道長の頃の面影はなく、現在は石碑のみが立っているだけです。

 

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為政者の建築には政治的メッセージがこめられることが多々ありますが、白河上皇は法勝寺建立にあたって国家寺院や摂関政治からの継続性を意識しつつ、超巨大な八角九重塔によって上皇の独自性を主張し、摂関政治を乗り越えようとする立場を明確にしたのではないかと言われています。

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院政の時代朝廷
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