院政期から鎌倉時代の京都~平安京の変化と「洛中」の成立

鎌倉幕府
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いつまでが平安京で、いつからが京都なのでしょうか?

明確な区分はありませんが、どうやら中世の始まり頃のようです。

今回は、平安京の変化とともに、京都の出現を見ていきたいと思います。

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平安京の変化

平安遷都

794年(延暦十三年)、桓武天皇は早良親王の祟りなどから逃れることを理由に、784年(延暦三年)に遷都した長岡京から平安京に遷都しました。

平安京は、平城京や長岡京などと同様に城門と城壁に囲まれ、その内部は条と坊によって碁盤の目のように区画された都として建設される予定でした。

しかし、蝦夷攻略と平安京造営という二つの巨大事業が国家財政を圧迫し、民衆の窮乏が激しくなったことから、805年(延暦二十四年)の「徳政論争」を経て、両事業は中止されます。

その結果、実際に建造された城門は平安京の正面の羅城門だけで、城壁もその左右に少し建設された程度でした。平安京は、その誕生当初から都とそれ以外の境界が明確ではありませんでした。

また、平安京は東を鴨川、西を桂川に挟まれた土地に造営されたので、両河川の影響を強く受けます。特に、地形が東高西低だったので、左京は鴨川の氾濫による被害が絶えませんでした。

そのため、防鴨河使(ぼうかし)と呼ばれる令外官(律令に規定された以外の役所)をおいて、堤防の管理と修理を担当させるほどでした。一方の、右京は桂川の影響を受けた低湿地帯の上に造られたので、造営は思うように進みませんでした。

10世紀後半にしるされた慶滋保胤著『池亭記』には、「右京は人家も少なく、あってもほとんど廃墟に近い。出ていく人は多いが、来て住む人はいない」と記されています。

また、湿地帯だったため、蚊を媒介とする伝染病が流行しやすかったのも人々が右京を捨てる要因でした。

一帯は田園地帯に変わりつつあり、平安京の中央線というべき朱雀大路も細くなり、大路の意味を失っていきます。

左京の成長

その結果、官衙(役所)や住居は徐々に左京に移っていき、左京は大きく膨らんでいきます。左京は北上をはじめ、一条大路を越えて住宅地が拡大し、それに伴って新しい大路・小路が作られていきました。南北では西洞院大路が一条大路を越えて北上し、東西の通りでは武者小路、北小路(現今出川通)、毘沙門堂大路(現上立売通)が出現しています。平安京の規格が崩壊し始めたのです。

さらに左京の都市域は、東側にも拡大していきます。鴨川と東京極大路の間には、「東朱雀大路」という南北の通りが近衛大路と三条大路間に誕生しました。

その勢いは、鴨川を越えて進みます。二条大路が東進して白河の地(岡崎周辺:平安神宮のあたり)に到達し、この地に六勝寺や白河北殿・南殿・押小路殿などの貴族などの邸宅が続々と建てられます。

武家の拠点六波羅

平安時代末期から鎌倉時代なると、鴨東(おうとう:鴨川の東側)の南側でさらに都市化がすすみます。六波羅の地(清水坂を下ったところにあるエリア)に平氏政権が拠点を置いたことから、武家の町が誕生します。武家の屋敷は3200余を超えていたそうです。

平家が滅亡すると、頼朝の東国政権は六波羅の地を接収して京都守護を設置し、承久の乱(1221年)以後には六波羅探題を設置して、朝廷と西国の動向ににらみをきかせました。1238年(嘉禎四年)、六波羅探題は京中の48ヵ所の辻々に篝屋を設置し、御家人は篝屋番役を務めて京都の治安維持を担うことになります。

商業都市へ

朝廷の力は明らかに衰えましたが、新しい力が躍動していきます。この時代は、綾・絹・布などの高級衣類、鎧・弓矢・太刀などの武具や、その他日用品などが盛んにつくられるようになり、それらを売り買いする手工業者・商人が集うようになり、京都は商都として発展していくようになります。

なかでも、左京(洛中)の室町通と西洞院通に挟まれた南北の通りは「町」と呼ばれるようになり(現新町通)、その両側は商業地区として、「棚」「見世棚」と呼ばれる常設の店舗が並びました。特に、東西の通りとの交差点(三条町・四条町・七条町)は商業地域の中心部となりました。

現在も、新町通と三条通、四条通の周辺は、祇園祭の山鉾がもっとも多く並ぶエリアで商業の町です。

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平安京から京都=洛中へ

このような左京中心の平安京の発展は、呼び名に影響を与えます。

平安京という言葉が使用されなくなり、「京」「都」「洛陽」「京洛」「京師」という様々な呼び名が生まれます。その中で「京都」という言葉が最も使われるようになり、定着していったようです。中世は、平安京から京都に変わった時代といえるでしょう。

京都という言葉が定着した中世には、「洛」という考え方も登場します。上洛の「洛」、洛中の「洛」です。この「洛」の由来についてご紹介しましょう(あくまで一説です)。

桓武天皇の二代後の嵯峨天皇は唐風文化を好み、左京を「洛陽城」、右京を「長安城」と呼んでいました。しかし、右京が徐々に衰退して、平安京の中心が左京に片寄ってくると、左京が平安京であるような認識が生まれてきます。そのため、左京の別の呼び名である「洛陽城」が平安京を指すようになり、「京=洛」という考え方が生まれてきたそうです。

実際、左京=京都=洛中とする認識が鎌倉時代初期にあったようで、鴨長明の『方丈記』に、

京のうち、一条より南、九条より北、京極より西、朱雀(現千本通)より東の、路のほとりなる頭、すべて四万二千三百余なんありける、いわんや、その前後に死ぬる物多く、又、河原・白河・西の京、もろもろの辺地などを加えて言はば、際限もあるべからず。

と、記されています。

鴨長明は、養和飢きん(1181年)について記しているのですが、「京のうち」とは「一条より南、九条より北、京極より西、朱雀(現千本通)より東」を指していて、「西の京(=右京)」は「(鴨川の)河原・白河」や「もろもろの辺地」とともに京の外になっていたようです。

一昔前の京都人は、洛中以外の京都を「京都」として認めなかったという話がありますが(現在はそんなことを言う人はいないと思います)、それは鎌倉時代の頃から形成された認識だったのかもしれません。

 

参考文献

石井進『日本の歴史7~鎌倉幕府』中公文庫。

木村茂光『日本中世の歴史1~中世社会の成り立ち』吉川弘文館。

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