河内源氏のライバル・伊勢平氏の始まりについて解説

院政の時代
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源頼義・義家などのスーパースターを輩出しながらも、一族の内訌によってその勢力を後退させた河内源氏。源氏の嫡流を継いだ為義(義朝の父・頼朝祖父)はまだ14歳で、武士の長者としてはあまりにも若すぎました。そこで、白河院が源氏に代わる武力として目を付けたのが伊勢平氏です。今回は、平清盛のルーツとなる伊勢平氏の起源について見てみましょう。

 

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平氏と伊勢

伊勢平氏の始祖は平維衡(これひら)です。かれは、坂東平氏と同じ平貞盛の子孫でしたから、東国との関係が深い人物です。998年(長徳四年)頃に下野守、1013年(長和二年)頃に上野介、1021年(治安元年)には常陸介を歴任しています。

この下野守と上野介任官の間の1006年(寛弘三年)に、維衡は伊勢守に任ぜられました。この伊勢守のときに、伊勢を所領を開発して根拠地とし、伊勢平氏の祖になったとされていますが、これ以前から維衡は伊勢と因縁をもっていたと考えられています。維衡の伊勢守の在任はたったの二ヶ月で、その二ヶ月で根拠地を作り上げるのは不可能だからです。

維衡と致頼

998年(長徳四年)12月14日の右大弁藤原行成の日記『権記』によれば、行成は藤原道長のもとに赴き、様々な政務の相談をしました。その中の一つに維衡の件について話し合われたようです。

「法の定めによると、五位以上の者は許可なくして畿内の外に住むことはできない決まりです。下野守惟衡と散位致頼(むねより)は、多数の部下を率いて年来伊勢神郡(度会・多気・飯野・員弁・三重・安濃の六郡のこと)に住んで、国郡にとって迷惑行為をはたらき、住民の愁いとなっています。伊勢大神宮司に命じて京都に戻すべきでしょう」

この維衡と致頼の衝突は『今昔物語』にも記されています。

「今は昔、前代一条天皇の時代に、前下野守平維衡という兵あり。維衡は陸奥守貞盛という兵の孫なり。またこの時、致頼という兵あり。ともに兵の道を挑む間、互いに悪しき様に聞かする者ども有りて敵となす」

維衡も致頼も、ともに平氏で、鎌倉時代に成立した『十訓抄』に「(源)頼信、(藤原)保昌、維衡、致頼とて、世にすぐれたる四人の武士」なりと伝えられる優れた武士でした。

当時の法では、五位以上のものは、廷臣としてつねに朝廷に出仕できるように、京都に近い畿内に住む義務がありました。勅許を得なければ、畿内より外に出ることはできなかったのです。しかし、維衡と致頼はこの法を破って、日ごろ伊勢国神郡に住み、互いに仲間を引き連れて人々の迷惑になるようなことをしていたというのです。

人々の迷惑になるようなこと、つまり武力衝突が起こったきっかけは、維衡が致頼の徴発を受けて始まったようです。原因については、まったく定かではありませんが、伊勢神宮大宮司の力の及ぶ話でもなく、朝廷は直接両人に召喚状を出して検非違使庁に出頭させ、合戦におよんで人々に迷惑をかけたことを詰問しました。

詰問された維衡はただちに過状(謝罪状)を提出しましたが、優勢に事を運んでいた致頼は過状を提出しませんでした。朝廷は、明法博士令宗允亮(これむねまさすけ)に両人の罪名を考えさせます。その結果、過状をださない致頼は位をはく奪した上で、隠岐に流罪。過状を提出した維衡は、位はそのままで淡路に移郷されることになりました。移郷も軽い刑罰です。国に対する直接的な謀叛ではなかったので、まもなく維衡は京都に召還され、致頼も三年後に隠岐から召還されています。

 

在任二ヶ月の伊勢守

1006年(寛弘三年)1月28日の除目で、右大臣藤原顕光によって伊勢守に推挙されました。このとき、左大臣藤原道長は、

「維衡は伊勢で大事件を起こした者なので任命してはなりません。任命したならばよからぬことが起こるでしょう」と、反対しました。

道長の反対によって、係の者は維衡の任官手続きをとらなかったことから、維衡の伊勢守任官は見送られるかにみえました。ところが、任官者を決定し、その名を清書して天皇に奏上する際になって、維衡の名が書き入れられて奏上されてしまったのです。手違いか何なのか定かではありませんが、道長は「天皇の特別の仰せがあってのことなら仕方がない」と、しぶしぶ了承しました。

このような経緯で伊勢守になったからか、維衡は在任わずか二ヶ月で、伊勢守の解任されています。

しかし、伊勢における平維衡と致頼(ともより)との争いは、それぞれの子の正輔と致経に受け継がれて続きました。両者の争いは、致経が比叡山の横川にこもって出家し、1023年(治安三年)に没したことで終わります。こうして、伊勢における維衡流の地位は確立し、伊勢平氏が成立したのです。

しかし、伊勢平氏の武名は、長らく河内源氏の風下に置かれることになります。そんな伊勢平氏も、維衡の曽孫正盛の代になって、河内源氏から「武士の長者」の地位を奪うまでに成長し、清盛の時代にその頂点を迎えることになります。

 

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参考文献

竹内理三『日本の歴史6~武士の登場』中公文書。

木村茂光『日本中世の歴史1~中世社会の成り立ち』吉川弘文館。

福島正樹『日本中世の歴史2~院政と武士の登場』吉川弘文館。

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