藤原道長の娘彰子を母とした後一条・後朱雀と、後朱雀の子後冷泉の三天皇の時代、道長・頼通は外戚としての地位を保つことができ、その子孫にわたって勢威は保たれるはず、と当時の人々は誰もがそう思ったことでしょう。
しかし、盛者必衰の理は、平家や北条氏のように滅亡という形で藤原北家を襲うことはありませんでしたが、例外なく訪れました。
今回は、摂関政治が衰退していく様子と、衰退とともに成立し、鎌倉時代に何かと登場する「摂関家」の誕生について見ていきましょう。
関白頼通
関白藤原頼通は、なかなか娘に恵まれなかった人物です。一人の娘もいなかったときには、姪に当たる嫄子(げんし)を養女として後朱雀天皇の中宮に立てて入内させました。しかし、嫄子は皇女を生んだものの皇子を出産することはなく、まもなく没します。
その後も、頼通の兄弟の教通が生子を、頼宗は延子をそれぞれ後朱雀天皇の女御として宮中に送りましたが、後朱雀天皇は37歳で崩御。次の後冷泉天皇の皇后として、頼通の娘寛子と教通の娘歓子が入りましたが、実を結びませんでした。
結局、1068年(治暦四年)に禎子内親王の生んだ尊仁親王(後三条天皇)が即位し、頼通は天皇家の外戚というポジションを失うことになります。
『栄華物語』によれば、「尊仁親王(後三条)と仲が悪い」といわれていた藤原頼通は、関白を弟教通に譲って宇治の別荘に隠居してしまいます。将来、自分の嫡子師実を関白に就任させるという約束があったと言われています。
関白師実
1072年(延久四年)12月に後三条天皇は白河天皇に譲位しますが、その半年後に崩御しました。皇太子時代の尊仁親王(後三条)を抑圧し、即位後は何かと反抗していた藤原頼通は、後三条の死を宇治の別荘で聞いてその死を悼んだようです。そして、その頼通も、後三条天皇崩御から2年後の1074年(延久六年)2月2日に83歳の生涯を終えました。
延久から承保へと年号が改まった同1074年10月3日には、藤原道長の娘で、一条天皇の中宮として後一条・後朱雀天皇を生んだ上東門院彰子が87歳の生涯を閉じました。道長の権勢は彰子がいたからこそ発揮することができたわけですが、彰子の死は摂関政治は衰退を意味していました。
道長は摂政になったといえども、その在任期間は約1年。関白にはなったことがありません。道長の権力の源泉は娘の彰子にあったのです。
さらに、頼通の弟で関白教通が1075年(承保二年)9月25日に80歳で没しました。
教通には信長という54歳になる子がいて、正二位内大臣でした。一方の頼通の嫡子師実は、34歳でありながら従一位左大臣の地にあり、信長より上位にありました。そして、教通の死によって、26日に師実に内覧の宣旨が下ります。10月13日には師実は藤氏長者の地位に就き、15日に正式に関白に任命されました。
この師実の関白就任の背景には、師実の養女で白河天皇の中宮だった賢子の嘆願がありました。その結果、信長と師実の関白就任競争に白河天皇が介入した形になりました。皇位を思うままに操ってきた藤原氏が、天皇の介入を受けることになったわけで、天皇と摂関家の力関係が逆転していくことになります。
白河天皇23歳、関白師実34歳。この若い二人によって朝廷は動いていくことになります。
1087年(寛治元年)12月26日、白河天皇は善仁親王を皇太子に立て、その日のうちに善仁親王(堀河天皇)に譲位して、自らは上皇となりました。白河上皇は院政を敷き、ここに日本の中世が幕を開けるわけですが、白河院の強力な院政がすぐに行われたわけではありません。堀河天皇は、即位したときには8歳。慣例にしたがって、関白師実が摂政に任命されました。
この師実の摂政就任は、道長以来久しぶりの天皇の外祖父としての摂政就任です。人臣の摂政は、藤原良房・兼家・道長しか就任しておらず、師実は4人目となります。しかし、堀河天皇の母で、白河院の中宮賢子は村上源氏の源顕房の娘で、師実の養女だったことから、本格的な外祖父として権力を発揮するには弱い立場にありました。
堀河天皇が幼少の間は、摂政藤原師実以下の廷臣たちは白河院の意向をたずねて、指示を仰いでいました。
関白師通
堀河天皇が成人に達すると、堀河と関白藤原師通(師実の子)による政治が行われました。
堀河天皇は政道に明るく、寛容の徳を備えた名君だったと言われています。一方の師通は、心が寛大で、賢人を愛し、学問を好み、廷臣の人望を集めた人物と伝えられています。
したがって、白河院も堀河と師通の政治を好意的に見守っていて、白河院の影響力は院司や天皇家の内部に関わる問題に関与するにとどまっていました。このように、院政は絶対的な政治制度ではなく、天皇親政の度合いによって、強くなったり弱くなったりしました。
しかし、1099年(康和元年)6月28日、関白藤原師通が急死します。なぜ、急死したのかは定かではありませんが、当時は延暦寺の呪詛によって殺されたともっぱらの噂でした。
師通は、1095年(嘉保二年)の延暦寺の強訴に際して、武力で日吉神社の神輿を撃退しました。怒れる延暦寺は朝廷を呪詛し、師通はその犠牲になったというのです。師通の死は、貴族たちを恐怖のどん底に陥れ、神輿・御神木による強訴が頻発するきっかけとなります。
関白忠実
師通の急死を受けて、次の関白には師通の子忠実が就く予定でしたが、忠実は当時22歳の大納言。大臣にも就かずにすぐに関白というのは、さすがに無理があったらしく、師通の死から2ヵ月後の8月に内覧の地位に就きます。
内覧とは、天皇に奏上される文書をあらかじめ見ることができる職務で、政務についての決定権を天皇と共有することを意味していました。関白の職務の根元は、この内覧にあったので、忠実は関白の地位を得たに等しいのですが、堀河天皇によって正式に関白の地位に命じられるのは、この6年後の1105年(長治二年)のことでした。
忠実が関白になるまでの間、摂政・関白は不在となり、摂関政治はついに中断します。一方の白河による院政も本格化しません。堀河天皇は、その名君ぶりを発揮して親政を行っていたのです。
しかし、その堀河天皇は、1107年(嘉承二年)7月に29歳で崩御します。
一方、堀河天皇の皇子で白河上皇の皇孫の宗仁親王はまだ5歳。皇位継承問題はにわかに政界に不穏な動きをもたらすことになります。
白河院は輔仁親王への皇位継承を嫌い、場合によっては自らが重祚する考えを示しましたが、すでに1096年(永長元年)の愛娘郁芳門院の死に際して出家していたことから断念。強引に5歳の宗仁親王を即位させてしまいます。鳥羽天皇の誕生です。
摂関家の誕生
5歳の天皇に親政は無理なので、摂政を任命しなければなりません。ここで「摂関家」確立のきっかけとなる事件(事件というものかどうかわかりませんが)が起こりました。
鳥羽天皇の母苡子(いし:堀河天皇の女御)は、閑院流藤原実季の娘でした。閑院流は、西園寺・三条・徳大寺などの家がうまれた藤原北家の一派です。特に西園寺家は鎌倉幕府と朝廷をつなぐ関東申次として朝廷で大きな影響をもちます。
苡子の兄である閑院流藤原公実は、天皇の母方の伯父として摂政の地位に就く野望をもっていました。そこで公実は、自分は藤原師輔(関白藤原忠平の次男)の家系で、かつ外戚であることを根拠に白河院に摂政就任を迫ります。
白河院は大いに悩みました。特に悩んだのは「いまだかつて天皇の外祖父でも母方の伯父でもない者が、即位に際して摂政となったことはない」と公実が主張した点にあったようです。
関白忠実は、道長の系統(御堂流)ですが、鳥羽天皇の外戚ではありません。一方、閑院流は摂政・関白を輩出したことはありませんが、公実は鳥羽天皇の伯父です。
公実の言う通り、摂政は、良房・基経・忠平・兼家・道長・頼通・師実と、一貫して天皇の外祖父・外伯父・外叔父である外戚がその地位に就いてきました(安和の変直後の藤原実頼を除く)。さらに、公実の祖父にあたる公成の娘茂子が白河院の母だったことから、公実を摂政に就けたいという思いがありました。
そんな白河院の迷いを取り去ったのは、醍醐源氏の院別当源俊明の催促にあったようです。源俊明は、周囲の制止を振り切って法皇の御前に参上し、摂政の人事決定を催促しました。源俊明は「忠実を摂政に」とあからさまに主張したわけではないのですが、俊明の勢いにおされて、堀河天皇の関白忠実をそのまま鳥羽天皇の摂政にするという判断に落ち着いたのでした。
以上が事件のあらましです。どこが事件なんだ?と思われるかもしれませんが、これをきっかけに「摂関家」が確立するのです。
つまり、道長の子孫以外の摂政が誕生するかもしれない事態において、当時の公卿が「摂関は代々継承されるべき地位で、外戚とはいえ一般の公卿が任命される地位ではない」という認識を世間に示したことになりました。
こうして摂関は、外戚関係の有無とは無関係に、道長の子孫の系統によって継承されることになり、ここに「摂関家」が成立したのです。
道長・頼通時代の「摂関政治」は、天皇やその父・国母・外戚などの「身内」が権力の中枢を掌握する体制でした。ところが、院政期になると、朝廷は天皇家や摂関家などの「家」の集合体へと変化します。「摂関家」は、天皇家を取り巻く貴族層の「家」の一つになったのでした。
したがって、外戚関係に依存しない「摂関家」は成立しますが、外戚関係によっておなわれた「摂関政治」の時期に比べて政治的地位が低下することにつながりました。
また忠実は、白河法皇の判断によって摂政の地位に就くことができたわけで、それは祖父師実が白河天皇の判断で関白の地位に就いたのと同様だったのです。摂政の人事という重大事に際して、院側近の公卿がこれに口を挟むという事態も生じました。
「摂関」は道長・頼通時代のように侵しがたい地位ではなくなり、上皇や近臣の影響を受ける地位に低下したのです。
参考文献
北山茂夫『日本の歴史4~平安京』中公文庫。
土田直鎮『日本の歴史5~王朝の貴族』中公文庫。
木村茂光『日本中世の歴史1~中世社会の成り立ち』吉川弘文館。
福島正樹『日本中世の歴史2~院政と武士の登場』吉川弘文館。
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