白河天皇から堀河天皇への皇位継承と政治状況を解説

院政の時代
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中世は白河法皇の院政によって始まったことになっていますが、そもそも白河天皇の即位は「中継ぎ」で、自身の子供に皇位を継承する予定はありませんでした。つまり、鳥羽・後白河・後鳥羽といった院政時代を象徴する天皇が生まれる予定はなかったのです。しかし、史実は皇位が継承されているわけですが、それはどうしてでしょうか。

ということで、今回は白河天皇の即位から、白河の子堀河天皇への譲位の経緯と堀河天皇時代の政治状況を見てみましょう。

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後三条天皇の死

1072年(延久四年)12月8日、後三条天皇は皇位を20歳の貞仁親王(白河天皇)に譲り、同時に新しい東宮に実仁親王を立てました。譲位の理由は、体調がすぐれなかったからと言われていますが、延久五年2月には石清水八幡宮・住吉神社・四天王寺に御幸しています。

 

摂関政治の衰退と後三条天皇の即位~院近臣たちのはじまり
中世は白河上皇の院政から始まったとされていますが、その前に行われていた政治といえば摂関政治。藤原道長・頼通の頃が全盛期と言われていますが、今回はその摂関家の勢威が弱まった原因と後三条天皇の即位にいたる経緯を見ておきましょう。院政時代の前段の...

 

後三条上皇が院政を行う意図があったかどうかは定かではありませんが、これより100年後の鎌倉時代初期に記された『愚管抄』によると、その意思があったとされています。

後三条上皇の体調が悪化したのは、御幸から帰京した3月頃で、4月7日に白河天皇は後三条天皇を見舞っています。4月21日に出家たのち、重篤な状態に陥り、ついに5月7日に崩御しました。享年40歳。

摂関家も世代交代

皇太子時代の尊仁親王(後三条)を抑圧し、即位後は何かと反抗していた藤原頼通は、後三条の死を宇治の別荘で聞いてその死を悼んだようです。その頼通も、後三条天皇崩御から2年後の1074年(延久六年)2月2日に83歳の生涯を終えました。

延久から承保へと年号が改まった同1074年10月3日には、藤原道長の娘で、一条天皇の中宮として後一条・後朱雀天皇を生んだ上東門院彰子が87歳の生涯を閉じました。道長の権勢は彰子がいたからこそ発揮することができたわけですが、彰子の死は摂関政治の衰退を意味していました。道長は摂政になったといえども、その在任期間は約1年。関白にはなったことがありません。道長の権力の源泉は娘の彰子にあったのです。

さらに、頼通の弟で関白教通が1075年(承保二年)9月25日に80歳で没しました。教通には信長という54歳になる子がいて、正二位内大臣でしたが、頼通の嫡子師実は34歳でありながら従一位左大臣と信長より上位にありました。そして、教通の死によって、26日に師実に内覧の宣旨が下ります。10月13日には師実は藤氏長者の地位に就き、15日に正式に関白に任命されました。

この師実の関白就任の背景には、師実の養女で白河天皇の中宮だった賢子の嘆願がありました。結果、信長と師実の摂関家の競争に白河天皇が介入した形になり、摂関家の天皇への従属が深まることになります。皇位を思うままに操ってきた藤原氏が、天皇の介入を受けることになったわけで、天皇と摂関家の力関係が逆転しました。

1077年(承保四年)2月、村上源氏の右大臣源師房も70歳でこの世を去り、後三条天皇から白河天皇への世代交代に合わせて、摂関家・朝廷の世代交代もすすんだのです。

白河天皇23歳、関白師実34歳。この若い二人によって朝廷は動いていくことになります。

白河天皇と皇位継承

白河天皇による親政は15年におよびますが、白河天皇にとって気がかりなのは皇位継承問題だったようです。後三条は摂関家を遠ざけるために白河に譲位しましたが、白河の皇位は新たに皇太子となった実仁親王が即位するまでの「つなぎ」でした。したがって、自分の子に皇位を譲ることもできませんし、のちに「院政」を行うような立場にありませんでした。

白河・堀河

1074年(承保元年)12月26日、白河と中宮賢子の間に第一皇子敦文親王が誕生します。また、1076年(承保三年)4月には皇女媞子が誕生します。媞子はのちに「太上皇最愛之女」と言われる郁芳門院です。ところが、敦文親王は1077年(承保四年)9月にわずか4歳で没しました。

中宮賢子は1078年(承暦二年)5月に第二皇女令子、1079年(承暦三年)7月に第二皇子善仁親王をもうけました。その中宮賢子は、1084年(応徳元年)9月に28歳の若さで亡くなります。白河天皇は、最愛の賢子の亡骸から離れようとせず、抱いて離さなかったと伝えられています。亡き中宮の面影を残していたかもしれない皇子に皇位を譲りたいと考えても不思議ではありませんが、そのような権限は白河天皇にありません。

一方、後三条が皇太子に定めた実仁親王と実弟輔仁親王は、祖母(後三条の母)陽明門院禎子内親王に守られて成長していました。摂関家の圧迫を身に染みて体験した禎子内親王は、摂関家に遠い実仁親王の即位を待ちわびていたことでしょう。

ところが、1085年(応徳二年)の秋ごろから流行りはじめた疱瘡(天然痘)を患った皇太子実仁親王が11月8日に15歳で没します。中宮賢子が没して1年後のことでした。

次の皇太子は誰か?となります。実仁親王の実弟輔仁親王か、白河天皇の子善仁親王が有力です。陽明門院禎子内親王が推す輔仁親王と、白河天皇の子善仁親王のどちらが皇太子になるのかについて、禎子内親王と白河天皇が対立しました。

白河天皇と陽明門院禎子内親王の間で調整が行われますがまとまらず、実仁親王が没して2年後の1087年(寛治元年)12月26日、白河天皇は善仁親王を皇太子に立て、その日のうちに善仁に譲位して、自らは上皇となりました。そして、善仁親王は堀河天皇となったのです。白河上皇は院政を敷き、ここに日本の中世が幕を開けるわけですが、白河上皇の強力な院政がすぐに行われたわけではありません。

堀河天皇と篤子内親王

白河上皇と陽明門院禎子内親王の対立ですが、禎子内親王が愛育している篤子内親王を堀河天皇の皇后とすることで決着します。篤子内親王は30歳、堀河天皇は11歳ということで、篤子内親王はこの縁談をことのほか恥ずかしかったようですが、堀河天皇が篤子内親王の入内を強く望んだことが『今鏡』に記されています。

早くに母賢子を失った堀河天皇は、篤子内親王に母親の面影を感じたのかもしれません。二人は仲睦まじかったようです。

 

堀河天皇と摂関家

堀河天皇は、即位したときには8歳。慣例にしたがって、前代の関白藤原師実(頼通の子)が摂政に任命されました。この師実の摂政就任は、道長以来久しぶりの天皇の外祖父としての摂政就任。藤原良房・兼家・道長で、師実は4人目となりますが、堀河を生んだ賢子は村上源氏の源顕房の娘で、師実の養女だったことから、本格的な外祖父として権力を発揮するには弱い立場にありました。

一方、白河上皇は天皇が幼少だからといって、後三条天皇の親政以来、天皇家が握った政治の主導権をそう簡単に摂政の手に渡そうと考えるはずもありません。また、貴族たちも後三条天皇と白河天皇による長年の親政に慣れてしまったことから、白河の後見をむしろ期待していたようです。摂政師実をはじめ、廷臣たちは、折にふれて上皇の意向をたずねてその指示をあおぎ、白河もすすんでこれに応えていたようです。後三条・白河の有力な廷臣だった大江匡房は、「今の世のことは、すべてまず上皇の御意向をうかがってからでなければ行えない」と述べています。

師実の時代、摂政・関白の地位を世襲する「摂関家」という家が固定化していたわけではありません。師実の祖父道長の行った「摂関政治」は、道長が歴代天皇の外戚、外祖父を独占できたところに政治権力の源泉があり、摂政・関白の地位にあったからではありません。道長は一度も関白の地位に就いたことがなく、摂政にしてもわずか1年余りしか就いていません。道長の政治権力の源泉は、摂政・関白の地位にあったのではなく、娘で中宮の彰子の存在にあったのです。ですから、道長の子孫に摂政・関白の地位が継承されるかどうかは確定していなかったのです。

1094年(嘉保元年)3月、藤原師実が関白の職を33歳の師通に譲りました。師通は堀河天皇と協力して政治を行う時期がしばらく続きます。『本朝世紀』には、「師通は心が寛大で、賢人を愛し、学問を好み、廷臣の人望を集めた」と記され、堀河天皇については、『中右記』によると「天皇は政道に明るく、寛容の徳を備え、上から下までその恩愛に浴さないものはいなかった」と記されており、この2人に白河上皇も一目を置いていたようです。

この時期は、左大臣源俊房・右大臣源顕房らの村上源氏も隆盛を誇っていて、堀河天皇と関白師通、左右大臣村上源氏によって白河院政も本格化することはありませんでした。白河上皇の院政は、この時期、院司や天皇家内部に関する問題に限られていたのでした。

 

参考文献

北山茂夫『日本の歴史4~平安京』中公文庫。

土田直鎮『日本の歴史5~王朝の貴族』中公文庫。

木村茂光『日本中世の歴史1~中世社会の成り立ち』吉川弘文館。

福島正樹『日本中世の歴史2~院政と武士の登場』吉川弘文館。

 

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院政の時代朝廷
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