【院政時代】摂関家領と家政機構の整備~政所・侍所の起源

院政の時代
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院政の成立によって、摂関家は政権の座から降りることになりました。その大きな要因は、朝廷内の人事権を法皇・上皇などの院が掌握したからで、摂関の地位も例外ではありませんでした。そして、受領をはじめとする中下級貴族や武士などが人事権を失った摂関家の下から離れていきました。

 

摂関政治の衰退と摂関家の成立
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その結果、受領らに頼っていた儀式の費用調達に支障が出たり、儀式への奉仕者が減少するなどの問題が起こり、これが摂関家が院に従わざるを得ない要因の一つとなりました。この状況を打開しようと奮闘したのが藤原忠実です。

忠実は、摂関家再興のためにその生涯をささげた人物と言えますが、残念ながら保元の乱にみられる摂関家分裂を引き起こします。

 

保元の乱の原因~摂関家の分裂について解説
ややこしい人間関係の保元の乱。今回は、摂関家が分裂していく経緯についてみていきましょう。 天皇家の分裂については、こちらの記事をご覧ください。 忠実・忠通親子 まずは、藤原忠実。道長-頼通-師実-師通-忠実の順に藤...
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摂関家領の再編と拡大

忠実が摂関家の経済基盤の強化に乗り出そうとしたころ、白河院政下の荘園整理政策は転換し、鳥羽院政のもとで多くの荘園が設立されるようになりました。そこで忠実は、多くの荘園を集積していきます。

たとえば、藤原道長の子頼通の時代に成立した荘園は、摂関師実とその室源麗子、四条宮寛子に三分割されて伝領されていましたが、それを忠実一人にまとめたり、頼通の養女嫄子と後朱雀天皇の間に生まれた皇女裕子内親王の高倉一宮領を伝領しています。

これらの摂関家領の再編に加えて、地方豪族と連携して荘園を拡大していきました。その代表的な例が薩摩島津荘です。これは大宰府官人の平季基が開発して頼通に寄進していたものですが、その当時は数百町歩の荘園でした。しかし、忠実の時代には8000町歩(1町=1ヘクタール=10000㎡)におよぶ広大な荘園になっていて、さらに鎌倉時代初期には、薩摩・大隅・日向の三ヵ国にまたがる大荘園になっています。また、宇佐八幡宮領が摂関家領になったのも忠実の時で、奥州藤原清衡と連携して奥州にも摂関家領を確保しました。

このような忠実の努力によって、摂関家は経済的基盤の再建に成功し、摂関家の経済が荘園によって運営されていくことになります。国家の中央財政から与えられる各種の俸禄(食封)、官位に応じて与えられる位田や賜田などの封戸・田地に依存する経済から完全に脱却したのはこの頃のことでした。

 

院政期の荘園の特徴と現地~預所・荘官(下司・公文・田所)を解説
11世紀末に白河法皇による院政が始まると、王家(院・天皇・女院)・摂関家の主導によって多くの荘園がつくられていきました。このことを立荘といいます。立荘は、12世紀前半の鳥羽法皇の院政期をピークとして、おおよそ13世紀前半頃(鎌倉時代半ば)まで行われました。

家政機構の整備

政所の設置

院の家政機関に「院庁」が存在したように、摂関家にも「摂関家政所」という家政機関がありました。この「政所」は、親王や三位以上の公卿が設置することを認められていたものなので、摂関家特有の機関というわけではありません。

政所は、律令制のもとにあった「家務所」が発展して、新たな家政機関として成立したものです。925年(延長三年)頃には摂関家の政所が成立していたようです。政所といえば、鎌倉幕府が有名ですが、鎌倉幕府特有のものではありません。

この政所は、別当・令・知家事・大少の従・書吏・案主といった職員によって構成されていました。このうち、「別当」は四・五位の中級貴族が任命され、家政機関の最上層に位置し、さまざまな儀式の実務を行いました。「令」は律令にも規定された「家令」の系譜を引く職名で、本来は太政官によって任命されるものですが、平安時代になって主君の命で任命されるようになったようです。

別当・令は「家司(けいし)」と呼ばれました。一方、知家事・従・書吏・案主等は「下家司」と呼ばれ、位階も六位以下に限定されていました。

侍所の設置

院政時代に入ると、摂関家が主宰して行う年中行事等の儀式への出仕者が減少して、儀式を実施することに支障が生じてきたことを記事冒頭で述べましたが、これを解決するために政所職員を統制し、把握するために「侍所」を設置します。

この「侍所」という名称は、鎌倉幕府や室町幕府などの武家政権の御家人統制機関として有名ですが、侍所は政所同様に、摂関家をはじめとする公卿の家政機関の一つです。

侍所の名称が初めて見えるのは宮中で、天皇の居所である「清涼殿侍所」です。そこには殿上人(五位以上の者のうち、天皇の日常生活の場である清涼殿への昇殿を許された者)の出勤管理に関する「日給簡(ひだまいのふだ)」や宴会・儀式用の台盤・椅子、日記簡などが置かれていました。

公卿の家政機関としての初見は摂関藤原忠平の侍所で、919年(延喜十九年)のことです。忠実の時代の侍所は、蔵人所と呼ばれることもあり、そこには台盤・日給簡・名簿唐櫃・着到などがありました。

ちなみに、「侍」の本来の意味は、六位級の官人やその家柄の者を指す呼称で、侍を武士と同じ意味とするのはかなり時代が下り、すくなくとも鎌倉時代までは六位級の下級官人のことを意味していました。摂関家をはじめとする公卿の侍所は、こうした六位級の官人である侍が伺候し、家政機関職員の出勤管理や人事管理などを統括する機関だったのです。

このような家人統制に関する機能は、のちの鎌倉幕府の機関に継承されていきます。鎌倉幕府は武士による新しい政治機構ですが、その仕組みは院政時代の家政機関の流れを引き継いでいて、何もかもが新しいというわけではありませんでした。

 

参考文献

竹内理三『日本の歴史6~武士の登場』中公文書。

木村茂光『日本中世の歴史1~中世社会の成り立ち』吉川弘文館。

福島正樹『日本中世の歴史2~院政と武士の登場』吉川弘文館。

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院政の時代 朝廷
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