源氏の嫡流足利氏と執権北条氏の蜜月の関係

鎌倉時代
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1333年(元弘三年)、足利尊氏が鎌倉幕府六波羅探題を攻め滅ぼすという歴史的事件が影響しているせいか、足利氏と北条氏の関係は悪かったという印象が世間一般にあると思われます。

【鎌倉幕府滅亡】足利尊氏、六波羅探題を攻め滅ぼす
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もちろん、ギクシャクした時期もありますが、基本的には足利・北条両氏は長年良好な関係にあったと言えます。

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足利氏と北条氏の関係の始まり

足利氏は、源義家の子義国を祖とし、義国の兄義親の系統が源頼朝です。日本中に散らばる数多くの源氏の中でも、足利氏は源頼朝の血統に最も近い存在(木曽氏は除く)でした。

源家足利氏略系図

1180年(治承四年)の源頼朝の挙兵にともなって始まった「治承・寿永の乱」と言われる源平合戦の頃、下野国に住んでいた足利義兼(??~1199)は、源頼朝の招きに応じて鎌倉に入り、頼朝の配下に属します。

足利義兼の母は熱田大宮司藤原季範の娘で、源頼朝の母由良御前と姉妹の関係にありました。足利義兼と源頼朝とは従兄弟の関係にあったのです。

その関係もあってか、1181年(養和元年)に源頼朝は妻北条政子の妹で時子(生没未詳)を娶るように義兼に命じます。

北条時政からすれば源氏の御曹司2人が婿に、政子・時子の兄弟北条義時・時房からすれば源氏の御曹司2人が義兄弟となったわけです。足利氏と北条氏の関係は、こうして足利義兼が北条時政の娘を娶ったことに始まったのです。

 

足利歴代当主の正妻は全て北条氏

結論から申しますと、足利氏歴代当主の正室は全て北条氏です。そして、北条氏出身の母親ではない男子は当主になれなかったのです。ただし、足利家時と高氏(尊氏)だけが、側室上杉氏出身の母親です。これが、北条氏との関係に微妙な影を落とすのですが・・・。

足利・北条婚姻関係

足利義兼と北条時子の間に生まれた義氏(1189~1254)もまた、三代執権北条泰時の娘(生没年不詳:母は三浦義村の娘)を娶ります。さらに義氏の子泰氏(1216~1270)も、泰時の子時氏の娘(?~1246:母は未詳)を娶っています(時氏は早世したので執権には就いていません)。

このように、足利義兼・義氏・泰氏の足利氏三代と北条得宗家との婚姻関係は、両家を幕府内で特別な地位へと上昇させていきます。

頼朝死後、北条氏は源氏の名門足利氏を自己の陣営につなぎとめることで、幕府内部における北条氏の地位の確立につとめることができました。

足利氏にとっては、幕府内で影響力を増す北条氏とつながることで、源氏の嫡流という立場を足利氏が継承した(源実朝の死によって頼朝系の源氏は断絶したので)ことを人々に認めさせることができました。

足利氏と北条氏は、幕府内で勢力を拡大するために共に支え合う関係だったといえるかもしれません。

鎌倉時代の足利氏は、義氏のころが足利氏の最も栄えた時代とされ、北条氏との関係も極めて良好だったと考えられています。

義氏は北条氏に対して協力し続け、その権力の確立・維持に力を添えていきました。北条氏もまた、足利氏を源氏の嫡流として最も有力な御家人として厚遇していったのです。

 

ところが、義氏の嫡子泰氏が35歳で突然出家し、さらに義氏が没すると足利氏の勢いに陰りが生じてきます。北条の勢いがダントツになったと言い換えてもよいかもしれません。

それでも、頼氏以降の歴代当主の正妻は北条氏であることに変わりはありません。

頼氏・家時・貞氏・尊氏の正室は北条庶子家から

1254年(建長六年)、京の都から「関東宿老」と言われた足利義氏が死去します。義氏の子泰氏(1216~1270)は存命でしたが、出家しており家督の地位にありませんでした。そこで、泰氏の子頼氏(1240?~1262?)が足利氏の当主となります。

足利義兼・義氏・泰氏は北条氏嫡流得宗家から正室を迎えていますが、頼氏・家時・貞氏・高氏(尊氏)は北条庶子家から正室を迎えています。このことをもって、北条氏は足利氏を軽んじるようになったという議論がありますが、それは違う気がするのです。

 

泰氏から尊氏までの鎌倉時代の足利氏

足利将軍につながる「源氏嫡流足利氏」の誕生

 

足利・北条婚姻関係

足利頼氏の正室

頼氏は得宗家ではなく、佐介流北条氏の祖時盛の娘(生没年未詳)を娶ります。得宗家ではありませんが、佐介流は北条一族内では一目を置かれる家柄です。なぜなら、佐介時盛の父は北条義時・泰時を支えた初代連署北条時房の子です。時房流の惣領家の地位争いをめぐって佐介流と大仏(おさらぎ)流が争い、佐介流が敗れたため幕政の中心から姿を消していきますが、それはもう少し後の話です。

17歳で幕府に出仕した頼氏は、幕府の重要な行事にも次々と参加し、その先は順調に思われましたが、23歳の若さで死去します。佐介流北条時盛の娘との間に嫡子をもうけることができませんでしたので、家女房上杉重房の娘との間に生まれた家時(1255?~1289?)が家督を継ぎます。鎌倉時代の足利氏としては、初めての北条氏を母親にもたない当主の誕生でした。このことが家時の自害に様々な憶測を生んでいるのですが、この話は別記事にてお話しましょう。

足利家時の正室

北条出身の母を持たない家時が足利当主に就いたからといって、邪険に扱う北条得宗家ではありません。家時には常葉流北条氏祖時茂の娘(生没年未詳)が嫁いでいます。高氏(尊氏)の父、足利貞氏の母にあたる人物です。

時茂(ときもち)も得宗家ではありませんが、幕府ナンバー3の地位と言っても過言ではない六波羅探題北方としてその任を果たしています。そして、時茂の父は極楽寺流北条重時(1198~1261)で、兄は6代執権赤橋流北条長時です。

重時は、北条泰時の弟で「御成敗式目」の作成に深くかかわり、泰時の耳目として六波羅探題で活躍しています。また、重時の娘は5代執権北条時頼に嫁いでおり、8代執権北条時宗の母にあたります。重時は連署として若き執権時宗を支え続けます。

北条氏は、足利家時を丁重に扱っているのです。

ただ、先にも少し述べましたが、家時は35歳ころに謎の自害を遂げています。

足利貞氏の正室

家時のあとを継いだのが貞氏(1273~1331)です。貞氏には金沢流北条顕時の娘(生没年未詳)が嫁ぎます。

金沢顕時は霜月騒動で失脚したり、平禅門の乱で復活したりと忙しい人生を歩んでいますが、顕時の父実時は「金沢文庫」を創設した武家随一の文化人です。京急金沢文庫駅の金沢文庫です。

 

 

息子の貞顕(貞氏正室の兄)は、幕府の様々な要職をこなし15代執権になります。北条氏が足利氏を軽んじているとは言えないでしょう。

貞氏と顕時の娘の間には、高義(生没年未詳)が生まれています。高氏(尊氏)・直義の義兄にあたります。本来は高義が足利当主になるはずでしたが、早世したと考えられています。

貞氏には、側室上杉頼重の娘清子との間に高氏(尊氏)がおり、高氏が足利氏当主になります。家時の母は上杉氏でしたが、高氏の母も上杉氏だったのです。

足利高氏(尊氏)の正室

北条出身の母をもたない高氏(1305~1358)が足利当主になったからといって、足利氏を邪険に扱う北条氏ではありません。

高氏の正室には、赤橋流北条久時(1272~1307)の娘登子(1306~1365)が嫁ぎます。高氏と登子の間には、義詮と基氏が生まれました。義詮は室町幕府2代将軍、基氏は初代鎌倉公方です。

赤橋久時の没年が1307年で、登子の生年が1306年ですから、ほとんど親子関係はなかったと言えます。父親の代わりをしたのは、兄で鎌倉幕府最後の執権赤橋守時(1295~1333)でしょう。登子の兄弟には、最後の鎮西探題赤橋英時(?~1333)もいます。

 

足利氏庶家と北条氏の関係

足利氏と北条氏の縁戚関係は、足利氏当主と北条得宗家だけの関係だけではありません。

源姓畠山氏祖足利義純

足利義純(1176~1210)は、義兼と遊女の間に生まれたこと言われ、長男に生まれましたが足利氏当主を継ぐ資格はありませんでした。1205年(元久二年)、武蔵国の有力御家人畠山重忠が滅ぼされると、その後家で北条時政の娘(生没年未詳)を妻とします。畠山氏は本来平氏でしたが、足利義純が畠山氏を承継したことで源姓畠山氏となります。北条時政は、娘婿に足利氏2人(義兼と義純)を持ったことになります。

この畠山氏は、後の室町幕府管領家・守護大名として名を馳せます。

斯波氏祖足利家氏

足利家氏(生没年未詳)は、足利泰氏の子で、母は名越流北条朝時の娘です。名越北条氏は、北条氏の主導権を巡って得宗北条氏と激しく対立しました。渋川氏祖足利義顕の母親でもあります。家氏は5代執権北条時頼の弟で阿蘇流北条為時の娘を娶っています。さらに斯波氏2代当主斯波宗家(生没年未詳)は、極楽寺流北条時継の娘を娶っています。

この斯波氏は、のちの室町幕府管領家・守護大名として名を馳せます。

むすび

足利氏歴代当主は全て、北条氏出身の娘を正妻に迎えてきました。鎌倉幕府の始まりから終わりまで、足利氏と北条氏は共に歩んできたのです。ギクシャクすることもありましたが、ここまで北条氏と長く深い関係を結んだ一族は足利氏しかいません。

義兼・義氏・泰氏には北条得宗家の娘が嫁ぎ、頼氏・家時・貞氏・尊氏には北条得宗家ではなく北条庶子家の妻を迎えていることをもって、頼氏以降の足利氏は北条氏に軽んじられたという議論があります。

しかし、得宗北条氏は足利氏に対して、庶子家と言えども北条得宗家を支えた宿老の子孫で、執権・探題を輩出する家柄の娘を正室として嫁がせています。さらに、足利庶子家も北条氏一族と縁戚関係をもちました。北条氏は足利氏を軽んじるどころか、深い関係を築き続けようとしたのです。

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