【2回目の蒙古襲来】元寇・弘安の役

鎌倉時代
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1274年(文永十一年)の元寇・文永の役で、元軍は謎の撤退をしました。

文永の役

【1回目の蒙古襲来】元寇・文永の役
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元の再来に備えた鎌倉幕府

【元寇】蒙古再来に備える幕府と西日本に拡大する北条氏勢力
1274年(文永十一年)の元・高麗軍による日本侵攻は(文永の役)、対馬から肥後・筑前の九州沿岸地域に大きな損害をもたらしました。本格戦闘はたった1日でしたが、御家人の奮闘もむなしく日本軍は敗色濃厚となったのです。 ところが翌日、元・高麗軍...

しかし、その後も元国皇帝フビライからの使者が、数度にわたって日本に派遣されています。

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再び元からの使者

1275年(建治元年)4月、杜世忠(とせいちゅう)を正使とする5人の使者は九州ではなく長門国室津(山口県下関市)に上陸しました。その後、彼らは大宰府に送られます。

びっくりしたのは幕府。文永の役から半年もたたない間に、再び元からの使者がやってきたからです。しかも、長門国から。

幕府は5月になって、山陽道の諸国に長門の警固番役を命じます。

8月になって、杜世忠らは鎌倉に護送されます。9月4日になって、執権時宗は杜世忠ら元使を滝の口で斬ったのでした。

フビライとしては、昨年の戦いで日本は元の軍事力に恐れをなし、外交交渉によって屈服できると考えたのでしょう。しかし、時宗は違いました。「断固拒否」だったわけです。

1279年(弘安二年)6月末、フビライはまたもや日本に服属を要求して使者を派遣します。この頃には、元は宋を滅ぼし中国大陸を制圧していました。

使者は周福・欒忠(らんちゅう)を主とし、陳光という通訳のほかに、本暁房霊泉という日本人をともなっていて、宋の旧臣という肩書で来日し服属を勧告したといいます。

彼らは博多に到着しましたが、鎌倉に送られるまでもなく全員切り捨てられました。

同年8月、元の宮廷に4年前に杜世忠らが処刑されたという情報がもたらされ、元の諸将は日本討つべしと息巻いたといいます。

弘安の役

1280年(弘安三年)8月、ついにフビライは征東行省(せいとうこうしょう)を設置し国内から兵員の動員を開始させました。征東行省の東征計画は、忻都(きんと)・洪茶丘率いる東路軍4万は高麗の合浦を出発し、范文虎(はんぶんこ)率いる江南軍10万は江南を出発。両軍は壱岐で合流し、日本に上陸するというもでした。

東路軍

1281年(弘安四年)1月、元の先発隊が高麗に向けて出発。これに高麗軍が加わり、合浦での軍勢は2万5千人、船舶4千4百隻という大軍に膨れ上がります。

5月3日、東路軍(元・高麗軍)が合浦を出発。軍船900艘、軍勢4万余り。

5月21日に対馬侵攻を開始します。

5月26日、対馬をおとすと東路軍は壱岐侵攻開始。しかし、暴風に見舞われ、犠牲者が多数出る有様でしたが、何とか制圧。

このとき、元軍は上陸に先立って島民に降伏を促す使者を送りましたが、島民はかえって反抗したため、元軍は上陸に踏み切ります。

壱岐の戦いでは、少弐経時の子資時が奮戦し壮絶な最期を遂げますが、日本軍は激しい抵抗をみせます。

この時の東路軍の暴虐ぶりはとても書けるような内容ではありません。文永の役を上回る残酷さだっと伝わります。

対馬・壱岐を攻略した東路軍の主力は博多湾に向かいます。

6月4日ごろ、東路軍の一部は長門国を襲撃。しかし、大きな戦闘もなく、元軍は退却したと考えられています。

6月6日、東路軍の主力が博多湾に到着しました。しかし、文永の時とは異なり、海岸線には石塁の構築され、容易に上陸することが出来ません

そのため、東路軍は防備が弱いと思われる志賀島、能古島に向かい、そこに停泊しました。

その夜のこと。九州の御家人草野経永らは、小舟に部下を分乗させて夜襲を試みます

草野経長は、小舟から敵船に乗り移り、さんざん敵兵を斬ったところで船に火を放って引き上げました。この経永らの作戦の成功によって、他の多くの武士に同様の行動に踏み切らせることになります。

元軍はこの日本軍の攻撃に対処するために、船と船を鎖で連結して日本軍を近づけず、近づいた小舟には石弓で撃ち沈める戦法をとります。このため、日本軍にも大きな損害がでました。河野通有も同じやり方で攻撃し、奮戦して功名をあげますが、郎等5人を討死させ自身も負傷しました。河野通有は伊予の御家人ですが、九州に所領をもっていたのでこの戦いに参加していました。

6月8日・9日、日本軍は軍勢を二手にわけ、海路と陸路の両面から志賀島の東路軍に攻撃をしかけます。

大友貞親は「海の中道」から元軍を攻撃し壊走させ、洪茶丘も馬で逃げたと伝えられています。さらに安達盛宗以下の関東勢が志賀島へ押し寄せて戦っています。

この2日の戦いで日本軍は勝利しました。

6月13日、ついに東路軍は上陸することができないまま、肥前国鷹島近辺に撤退していきました。

江南軍

元軍の主力の江南軍(元・旧南宋軍)が慶元(いまの寧波)を出発したのは6月18日ごろ。その兵力10万、軍船3500艘。

6月末には肥前国平戸近くの海上に到着します。この江南軍の一部は東路軍と合流しました。

6月29日から7月3日にかけて、激しい戦闘が展開されました。29日には、守護少弐資能は傷を負い、子の資時が戦死。さらに島津久経・長久兄弟が奮戦します。翌々2日には、松浦党や千葉・高木・龍造寺らの兵数万が参加し死闘を繰り広げています。

その後、元軍は上陸しようとせず、海上で20日以上を平戸から五島方面で過ごします。

7月27日、元軍の大部分が鷹島に移ります。その日の夜、これらの鷹島に集結した元軍船隊に対して、日本軍が総攻撃を仕掛けました。

閏7月1日、前夜から吹き始めた暴風雨によって、数千の元船が沈み、多くの軍兵が遭難。『元史』日本伝では「十万の衆、還ることを得たる者三人のみ」と記されていますが、それは誇張されているのですが、そのぐらい被害が大きかったのです。

閏7月5日から7日、この元軍の難破に日本軍は攻撃を加えます。各地で激戦が続き、降参した元軍は数千人とも伝えられています。

日本側は、降参した兵を生かしておく必要もなく、各々の分捕り数を登録したのち、博多那賀川あたりで全部首を刎ねました。

閏7月14日、元軍敗退の報が朝廷にもたらされました。

元軍の敗因

14万人という元軍が敗れた原因は、どこにあるのでしょうか。

この敗因は諸説ありますが、ざっくり挙げると・・・。

元軍が戦闘不能に陥るほど打撃を与えた直接的な原因が暴風雨であったことは間違いないでしょう。しかし、これだけで元軍が敗退したとは言い切るのはどうかと思われます。

そもそも、今回の対日遠征軍の中心が元軍ではなく、元に滅ぼされた旧南宋軍と服従した高麗軍から構成されていますから、兵士の士気が非常に低かったことが考えられます。

その士気の差は、当然日本の武士と大きく異なっていたはずです。日本は勝てば恩賞にありつけると本気で信じていたはずですから、かなり士気が高かったと思えるのです。

また、対日遠征軍の上層部の間で対立が見られ、意思統一が欠けていたことや、強制的に突貫工事で建造されたオンボロ船だったことも要因でしょう。

元は、日本に遠征出来るような状況にはなかったにもかかわらず、日本遠征を強行したのです。

そういう意味では、高麗征伐を強行しなかった、(結果的には「出来なかった」)北条時宗の判断は正しかったと言えます。

鎌倉幕府の高麗征伐計画

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そして、日本側は北条時宗らの幕府の強力な指示のもと、石塁などのハードと守護・御家人の組織体制のソフトの両面から防御の準備が整えられていました。準備不足の元軍とは異なります。

元軍は、負けるべくして負けたと言えるのではないでしょうか。

参考文献

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